哲学 評論

【第二エノク書】感想・レビュー あるいは古代人の感覚について

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黙示

「第一」のレビューでエノク書がやや退屈でつまらないと書いた。続けて「第二」を読み進めながら、あまりのくだらなさに挫折しそうになった時、某サイトでエウアゲリオスの『覚知者』(Gnousticus)という著作を読み、非常な衝撃を受けた。

すると当たり前の事ばかり書いてある粘土板のような文字群が、黄金の板に刻印されたかのように変わったのだった;それは巨大な、全人類がどこからでも見えるようにはっきりと書かれた看板か、あるいは標識のように見えた。道路標識にはこう書かれている ;”こっちは生。あっちは死 "。絵にするとこのような感じだ。

LIFE  👈  ⚖ 👉 DEATH

天秤

真ん中の天秤で、エノクによってしばしば繰り返される”偉大なる審判”を表してみた。黙示とか予言は、将来いつか起きるかもしれないことを予想するようなものだと間違って考えられている。そしてそれらは大抵実現しない。

しかし黙示の本当の意味はそうではなく、いつか必ず起きる事が決まっていることを人々に明かすことである。

標識

人々が往来する通り沿いに大きな、とても目立つ、誰でも読めるようにはっきりと、簡潔な表現で標識が立っていた。にも関わらず通行人の8割以上が標識に見向きもしない。私はこれらの多くの人は目が見えないか馬鹿なのだろうと思い始めていた。

残る2割の人たちはちょっと歩を止めて標識を見るには見るのであったが、読んでもその意味が分からないらしく、すぐまた早々と立ち去った。こうして看板はそこに立ってはいても、その本来の用途を果たしてはいなかった。

読むことはできてもこんな簡単な文章が理解できないというのは、標識か彼らの知覚器官に何かの呪文がかけられていて、理解を妨げているのであろう。誠に残念なことである。

感覚

古代人は現代人と比較して感覚も知覚器官もはるかに鋭かった。なので彼らは見えるものだけでなく、見えないものも知覚した。現代人は目に見えるものしか信じない。だから決して見えないものを知覚できず、しようとしない。

使わない知覚器官は地下の土竜の目のように退化する。また古代人は非常に鋭い聴覚を有していたため、自然が発するどんな声も聞き逃さなかった。彼らは鳥や風の言葉をはっきりと聞き、理解した。

まとめ

騒音と画面が、視覚と聴覚を塞いでいる。3本足のユダヤ人、不具の四足獣。その老爺の背骨は90度の直角を成し、顎髭はユダの剣のように三角に突き出ていて。。。ボードレールの詩「七人の老爺」の一コマである。

スマートホンを手にした人類は、超感覚的知覚能力の獲得と進歩を達成したようだ。テレビ通話・携帯電話は一種のテレパシーであるし、一瞬にして世界中を一望できる魔法の機械のようでもある。

しかし便利になった文明機械の所有が、すぐさま人類の進歩に繋がるとはかぎらない。現代人はそれらと引き換えに、古代人が当たり前に備えていた知覚能力を失くしてしまったのだ。

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