すべては消えゆく――マンディアルグが描いた“終末の幻視”
マンディアルグ(1909–1991)の最後の長編小説『すべては消えゆく』は、亡くなる4年前に発表された作品である。原題は “Tout Disparaitra”――つまり「すべては消えるであろう」という未来形である。
邦訳ではこれが「すべては消えゆく」と現在進行形に訳されているが、このニュアンスの違いは決して些細ではない。未来形がもつ予言的な響きは、作品全体に漂う“終末の予感”をより強く印象づけるものだ。
翻訳と原語――言葉の重みをめぐって
マンディアルグは晩年、自作に解説を加えることが多くなった。若き日のミスティフィカシオン(神秘化)やデペイズマン(異化)とは対照的なその態度は、読者に対して“終わり”を明確に伝えようとする意志の表れかもしれない。
邦訳(白水ブックス)のあとがきでは「物語の終わり」と訳されている箇所が、実は原文では「歴史の終わり(La Fin de l’histoire)」となっており、また「化身」とされた語も、本来は「受肉(incarnation)」である。
このようにマンディアルグのフランス語は詩的かつ象徴に満ちており、訳語の選択一つで印象が変わってしまう。その難解さはまさに“現代の神聖文字”とも言える。
第一部:ミリアムという幻影
物語は主人公ユーゴー・アルノルドが、現代のパリをさまよう場面から始まる。地下鉄で出会ったミリアムという名の女性に一目で惹かれた彼は、予定を放棄して彼女と行動を共にする。
彼女の導きで訪れたのは、古びた教会、そして“Foutoire”と呼ばれる閨房(けいぼう)。この語はアポリネールの造語であり、“foutre”というフランス語のスラングを語源とする。「混沌の部屋」「性交部屋」とも訳せるこの場所で、ミリアムは突然豹変する。
その姿はまるで神話的怪物のようで、鋭利な金属の爪を指に装着し、ユーゴーの体を傷つけながら侮辱し、打ちのめして追い出す。
第二部:セーヌと自由の女神
持ち物をすべて失ったユーゴーは、浮浪者のような姿でセーヌ川沿いを歩く。そこで彼は、川を逆流して泳ぐ裸の若い女と出会う。その名は“メリエム”。先ほどのミリアムに酷似しているが、名前の綴りが異なる。
“ミリアム”はユダヤ系の名であり、“メリエム”はそのアラブ形である。この二人の女は、神話的にはイヴと自由の女神、つまり母性と欲望、創造と破壊という両極の象徴を宿しているように見える。
最終的にメリエムはトレドの短剣を用い、自らの心臓に円を描くように刃を突き立てて命を絶つ。まるで舞台の終幕のような、演劇的かつ儀式的な幕引きである。
この物語が“予言”であるとしたら
筋書きそのものは決して複雑ではない。だが、これを“ヨハネ黙示録的な書物”として読んだとき、意味はまったく異なる相貌を見せ始める。
「すべては消えるだろう」――この未来形の宣言は、人類の歴史そのものに対する“予告”である。生成と変化の止まらぬこの世界、やがて訪れる滅びの時。それは単なる未来の話ではなく、“今”この瞬間にも等しく存在している。
たとえ1万年先であっても、その「今」は必ず来る。そしてそれは、今私たちが生きている「今」と何も変わらないのだ。
あとがきにかえて
本作をフランス語原文で読んだのは、まだ20代の頃だった。理解できていたとは言えないが、あの不可解な言語群は、熱せられた鉄印のように精神に刻まれた。
数十年ぶりに邦訳で読み直し、その差異と記憶の断片が交差するなかで、この記事を書くに至った。言葉の持つ暴力、歴史という幻、そして“すべてが消える”という予言の重み。どれもが今なお胸に刺さって離れない。
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