三島由紀夫『夏子の冒険』紹介・レビュー|修道院を飛び出し熊を追う恋愛冒険小説
概要
『夏子の冒険』は1951年に発表された、三島由紀夫の第7長編小説。地味なタイトルとは裏腹に、その内容は非常に独特かつ大胆な構成を持つ恋愛冒険小説です。戦後間もない時代背景を舞台に、都会育ちのお嬢様・夏子と猟師青年・井田毅が織りなす一風変わったロマンスと熊狩りの物語。初期三島作品に見られる繊細さと柔軟さが光る一冊です。
この作品は、三島自身が『私の遍歴時代』で語る「遍歴期」の終わりに位置する作品でもあり、肉体美や死といった後年の三島的主題はまだ明確ではないものの、精神的緊張感と日本的美意識が随所に見て取れます。
あらすじ
主人公・夏子は良家の令嬢で、わがままで気まぐれ、美貌の持ち主。ありふれた都会の恋愛にうんざりし、突如「修道院に入る」と言い出します。しかし上野駅で出会った猟銃を持つ青年・井田毅のまなざしに、彼女は興味を惹かれます。
偶然にも、二人は同じ北海道行きの船に乗り合わせ、甲板で夏子の帽子が風に飛ばされたことで会話が始まります。毅の目的は、昨年恋仲になったアイヌの少女・秋子を殺した人食い熊を追い、その仇を討つことでした。秋子の死を知った夏子は、修道院行きをやめ、毅の熊狩りに同行することを決意します。
熊狩りと冒険
熊狩りは単なる背景ではなく、物語の中核です。札幌猟友会の黒川支部長、地元新聞記者の野口、夏子の母・祖母・伯母の三人娘などが巻き込まれ、コタナイ・コタンという架空のアイヌの村での熊との対決が描かれます。
三島作品では珍しく、戦闘の舞台となる地域の見取り図が登場し、熊の習性や村の地形を活かしたリアルな描写が続きます。熊に襲われた犠牲者の回想や、狩りの緊張感はまさに映画『レヴェナント:蘇えりし者』を彷彿とさせます。
松明の場面と精神的結合
クライマックスでは、夜の村で熊が仕留められ、解体される場面が描かれます。松明の灯りの中、毅と夏子の視線が交わり、二人の精神的な「結合」が暗示されます。ここには、三島が好んだ古代的崇高さ、日本的な神話感覚が濃密に流れています。
結末と夏子の決断
しかし仇討ちを終えた毅の眼差しはもはや以前の輝きを失っていました。都会的な生活に馴染み始めた彼に対し、夏子は再び幻滅します。「夏子、やっぱり修道院に入る」と宣言し、毅の元を去る決意をするのです。
総評
一見、恋愛と冒険が絡む軽妙なエンターテインメント小説に見えながら、実は夏子という一人の女性の“精神的自己発見”を描いた作品でもあります。熊という「死と自然」の象徴を前に、青年と触れ合い、ついに再び孤高の道を選ぶ夏子。そこには「愛」よりも「真理」に近いものを求める精神性が通底しており、初期三島の特異な光芒が浮かび上がります。
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