【清少納言『枕草子』第九段】命婦のおとどと翁丸──平安貴族社会における動物・流罪・感情の制度化
1. はじめに──「いとをかし」の倫理
『枕草子』第九段に描かれる、猫と犬をめぐる一連の出来事は、現代の読者にとって非常に奇妙な読後感をもたらす。そこには、犬の島流し、暴力的制裁、貴族たちの笑い、そして「いとをかし」として括られる情景がある。
この章段は単なる「宮中の可笑しみ」ではなく、当時の動物観・階層倫理・儀礼と制裁の象徴体系が凝縮された一篇である。以下にそれらを読み解く。
2. 命婦のおとどと翁丸──貴族的序列の投影
この段では、帝(うへ)に愛玩される猫「命婦のおとど」が、乳母の軽い戯れによって犬「翁丸」に襲われそうになる。乳母は冗談交じりに「嚙みつけ」と命ずるが、犬はこれを本気と受け取り、猫に跳びかかる。
ここで重要なのは、「命婦のおとど」という猫の呼称が、本来は宮中の女官に用いられる尊称であるという点だ。すなわちこの猫は、人間に準じる階層的扱いを受けており、まさに宮廷の序列秩序が動物にも延長されている。
これに対して翁丸は、君命を軽んじた犬として罪を問われ、なんと「流罪」という処罰を受ける。この「島流し」は、本来は政治犯や謀反人に適用される刑罰であり、それが動物に対して演じられるという形式に、動物=擬人化された臣下としての観念が強く投影されている。
3. 流罪と赦免──政治的寓意としての動物譚
翁丸は宮中から追放されたのち、逃走し再び現れる。二人の者により殴打されるも、死には至らず、瀕死の姿で戻ってくる。
ここで興味深いのは、この動物譚が中世日本における「流罪→帰還→赦免」という典型的な政治パターンと呼応していることである。たとえば、菅原道真の太宰府左遷、源頼朝の伊豆流謫など、「一度罪せられた者が、後に恩赦により復権する」という物語構造は、王権の寛大さや政治の正統性を象徴的に演出する装置となっていた。
翁丸もまた、涙を流し、伏して平伏することで赦され、旧地位に復する。この一連の「儀礼的動物ドラマ」は、動物を媒介としながら王権による処罰と恩赦の儀礼劇を再演している。
4. 動物観と道徳の非対称性
現代的感覚から見れば、犬に対する暴力、宮人たちの笑い、倫理的無自覚は非常に残酷なものに映る。翁丸は人々の嘲笑の的となりながらも、従順さと哀れさを通して赦される。
しかし当時の倫理観は、人間の感情(「あはれ」「をかし」)が動物倫理を上回る構造にあった。動物は感情の媒介であり、自己投影の対象ではあっても、主体的な苦痛を持つ存在とは見なされていなかったのである。
とはいえ、清少納言はその描写を通じて、読者に一定の違和感を残すことにも成功している。たとえば「犬を殴って殺しかけた上で笑う」という場面は、明確な教訓や批判の語りを持たないにもかかわらず、読者の内面に倫理的問いを投げかける。
5. 結語──「いとをかし」の解体と再構築
清少納言の『枕草子』は、「いとをかし」によってあらゆる現象を肯定的に詠み上げる散文詩である。しかしこの第九段では、「をかし」の中に潜む残酷さや倫理的盲点が、皮肉にも立ち現れている。
翁丸は、階層秩序の犠牲者であり、また赦免によって社会秩序の回復を演じさせられる象徴的存在である。
宮廷社会において、笑いと涙は制度の延長上にあった。
犬もまた、流刑と恩赦の物語を生きねばならなかったのだ。
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