羊──第一住心という地獄の門
『十住心論』では、第一から第十まで、段階的に「住心」が解説される。その主体は、空海が唐から請来した密教経典群であり、他にも顕教・外典・古代中国の儒道思想までが引用され、各章の冒頭には空海ならではの詩文的書き出しが添えられる。
第一住心は分かりやすい。ダンテの『神曲』に喩えれば、地獄の門である。ここでは、人間の中でも最も低劣な存在──「食うこととヤること」だけに価値を置く動物的人間が対象となる。空海は、十善の裏返しである十悪を列挙し、これに染まる者は三途に堕ち、悪趣に苦しむと断ずる。
犬は糞を食らい、羊は淫らに交わる──人間もまた、そのように本能に従うだけの存在になり得る。身(殺生・盗み・邪淫)・口(妄語・悪口・おべっか・二枚舌)・意(物惜しみ・怒り・邪見)という三業の悪を律し、善男子・善女人たる仏弟子は、これを永劫に誓って避けねばならない。
構成──曼荼羅は“図”ではない
第二住心以降も、四王天やインド神話、宇宙観、様々な思想が混交しながら説かれていく。当初、筆者はダンテ『神曲』のように“宇宙の中心”に向かって進む構造かと思った。だが、この書はそうではなかった。
段階的に高度な住心を“上がっていく”というモデルは正しいが、それは空間的構造ではない。空=法性であり、位置や構造図では捉えられないのだ。
しかし曼荼羅には図的要素がある。胎蔵界曼荼羅の外枠「外金剛部」に様々な天の名が描かれていることからも分かるように、これは仏教とインド神話が融合した宇宙説明図のようなものである。
金剛界曼荼羅は「智」、胎蔵界曼荼羅は「理」、そして両者を一つにする発想──理智不二──これこそが惠果阿闍梨が編み出し、空海が大成させた「両界曼荼羅」の本質なのではないか。
空海という名の深意
「空海」という名前には、単なる地名や体験ではない、哲学的象徴が宿る。空=法性、海=一切を包む存在。すべては空から生まれ、空へと帰っていく。
現象界は波のように揺れ動くが、その奥底には静まりかえった真如の海がある。空海とは、その深層世界を名に宿した者なのだ。
両界曼荼羅が「二つは一つ、一つは二つ」であるように、人の手もまた右左に分かれ、五本ずつの指があり、印相を結ぶ。密教法具「五鈷杵」もまた、左右に五股を持ち中央で結ばれている。相反するものの統合──これこそが密教の主眼なのだ。
(以下、次回へ続く)
コメント