【空海・密教入門⑤】日本仏教とは何か──言語・翻訳・“義”の文化論kuukai-jyuushinron-5

疑似学術地帯

伝来──文字と仏教の交差点

日本の仏教は、なぜいまのような姿になったのか。その起点は、古代インドの釈尊にある。仏教はインドから中国へと伝えられ、翻訳事業が盛んに行われた。サンスクリット経典が中国語に翻訳される過程では、義(意味)を重視する訳と、音を写す訳の両者が用いられた。後者こそが真言や陀羅尼となった。

この時、中国はすでに高度な学問・芸術・文字文化を有していた。周易、老荘、儒学、詩・音楽・歴史・神話──それらを支える漢字の世界。その知の厚みが、仏典翻訳にも影響を与えた。

一方、日本には文字がなかった。言語はあれど文字を持たぬ人々が、中国(主に朝鮮半島経由)から漢字・書物・筆記具・紙の製法などを学んだ。そこには、計り知れぬ恩がある。

日本語と漢文は根本的に異なるため、漢字を“読む”という日本独自の方法──訓読・返り点・送り仮名などの工夫が生まれたが、完全な同化はできなかった。発音も文法も違う。こうして仏典の言語は、独自の“日本仏教語”に変容していった。

陀羅尼・真言──音の魔術

サンスクリット語の陀羅尼や真言は、音写によって伝わった。しかし、中国語の発音と、日本語の漢字読みはまるで違う。結果、日本で読誦される真言は、原語の再現からはかけ離れ、独自の呪文と化している。

経典を目で見れば漢文、耳で聞けば日本語読みに近く、もはやサンスクリットでも中国語でもない──これが日本仏教の言語構造である。

義──意味が生きる場所

それでも、日本の仏教は力を持つ。それは、“義”の文化を根強く保持しているからだ。音写であっても、言葉に託された意味を重視する──その営為の集積こそが、日本の仏教を力あるものにしている。

筆者は、これを“日本的霊性”と呼ぶ。一度日本という土に根付いた雑草は、もはや外来種ではない。蜜柑も、かつては中国の貴重品であり、空海が天皇に献上したが、いまやスーパーで山盛りに売られている。

読む努力──文字は力である

経典を読むには、それぞれの漢字が持つ義を丁寧に読み解く必要がある。「これは音写だから意味はない」と思わずに、可能な限り意味を追い、文脈にあたるべきである。

仏教用語を学ぶには、信頼できる学者の辞典──たとえば中村元らによる『仏教語大辞典』などの専門書を活用すべきである。

どこの家にもあるお経一つ読むだけでも、これだけの背景知識が求められる。ましてや空海の著作に挑むには、なおさらの修行が必要となる。

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