『ポリフィルス狂恋夢』英訳版レビュー
書誌と初読印象
『ポリフィルス狂恋夢(Hypnerotomachia Poliphili)』は、1499年ヴェネツィアで刊行されたフランチェスコ・コロンナ作の奇書であるfpba.com。その全篇英訳が初めて実現したのは、それから実に500年後、1999年にThames & Hudson社が刊行した英語版であったfpba.com(ジョスリン・ゴドウィン訳)。同版はオリジナル初版の刊行500周年を記念した「準ファクシミリ(疑似複製版)」とも位置付けられており、造本にも細心の注意が払われているfpba.com。本文組版は可能な限り1499年版のレイアウトを再現し、アルド・マヌーツィオの印刷所で用いられたローマン体を元にした「ポリフィルス」書体を用いて組まれているfpba.com。判型は大判のフォリオで豪華な製本、厚手の紙に美麗に印刷されており、英訳であることを除けばページの佇まいはルネサンス期オリジナルに酷似しているfpba.com。オリジナルが印刷工芸の最高傑作と称され「世界で最も美しい本」の一つに数えられるだけあり、本書英訳版も書物そのものの魅力で読者の息を呑ませる完成度を示しているfpba.com。
もっとも、この書物はその美しい外観ゆえにもっぱら観賞の対象とされ、内容を読破する者は稀だと言われてきたfpba.com。ルネサンス期の原著はラテン語やギリシア語を混交させた難解なイタリア語で綴られ、語彙の煩瑣さも相まって「眺めるだけで読むことを拒む本」として知られていたのであるfpba.com。英訳版の登場によってようやく現代の読者も本書のテキストに本格的に触れうるようになったが、初めてページを繰る者にとって、本書の印象はやはり一筋縄ではいかない。物語の建前こそ「恋人を追い求めるポリフィロが見た夢の物語」であるが、実際には頁の大部分が建築物や登場人物、古代の逸話などの精緻な描写に埋め尽くされており、読者は冒頭から濃密で華麗な異世界に圧倒されるbook.asahi.comfpba.com。饒舌なまでに積み重ねられるラテン語風の長大な語彙と比喩、次々に現れる古代の神々や寓意的モチーフの洪水に戸惑いながらも、同時に魅了されてしまうだろう。初読ではストーリーを追うよりも、絵画的な挿絵の美しさやタイポグラフィの調和に目を奪われ、「読む」というより「眺める」体験になるかもしれないbook.asahi.com。しかし一旦この夢幻の世界に足を踏み入れれば、読者はいつしかテクストに散りばめられた象徴の迷宮へ誘い込まれ、解読という知的冒険に身を投じることになるbook.asahi.com。
物語構造と象徴の迷宮性
本書の物語構造自体がまた、読者を惑わせる迷宮となっている。物語はポリフィロという青年が愛する娘ポリアを夢の中で追い求めるという体裁で始まり、その内容は巨大なエロス的夢幻恋愛譚とも評されるfpba.com。主人公「ポリフィロ」という名は「多くのものを愛する者」を意味し、その名の通り彼の夢の中では情熱の赴くままにあらゆる古代の遺物や風景に耽溺し、愛でていくfpba.com。ポリフィロは牧歌的で古典風の幻想世界をさまよい歩き、壮麗な建築物、神殿や庭園、神話上の怪物やニンフたちに次々と出会うfpba.com。しかし通常の筋立てに沿った冒険譚を期待すると肩透かしを食う。物語の展開は緩やかで、場面と場面は夢の連想によって繋がれているに過ぎず、ストーリー以上に風景と彫像と儀式の描写が延々と連ねられていくからであるfpba.com。たとえば壮大な神殿や泉の精緻な意匠についてページを割いて語り尽くしたかと思えば、突如として神話的儀礼の場面が挿入され、さらに長大な碑文解読や寓意劇が続くといった具合で、一貫した事件の起伏よりも夢の中を漂流するような読み心地を味わうことになる。実際、序盤から終盤まで「テンポよく物語を進める」ことは著者の眼中になく、代わりに博物学的・百科全書的な知の宝庫が広げられていると見るべきだろうpublicdomainreview.org。ポリフィロの夢は、神話・聖書・オカルトなどあらゆる古代的教養が織り込まれた万華鏡であり、そこで展開する異世界は「夢の中の夢」という多重構造を備えつつ構築されているpublicdomainreview.org。
こうした構造上の特徴により、『ポリフィルス狂恋夢』は線的な物語であると同時に膨大な寓意と象徴のネットワークでもある。読者は表面的にはポリフィロの夢の彷徨を辿りながら、その裏で張り巡らされた比喩と象徴の謎解きを強いられる。まさに物語世界そのものが一種の「迷宮」と化しており、迷宮に魅了されるかのごとく読み進める体験となる。現実離れした異世界への観光案内として本書を楽しむこともできるし、逆に作品内部に張り巡らされた寓話と象徴の糸を手繰りつつ、解読という行為それ自体に没入することもできるbook.asahi.com。語り手であるポリフィロ自身、夢の中で次々に脇道へと逸れては古代の遺構や美術品に心を奪われる「遍在的な愛好家」であり、その意味では読者もポリフィロとともに終わりなき寄り道に引き込まれていくと言える。結果として、物語を読み解くことは本書という書物そのものの構造を解読することと等しくなり、夢と寓意に満ちたテクストの迷宮性を味わうことが本書最大の醍醐味となっている。
エロスとヴィーナスの島
ポリフィロの夢の旅路は、究極的には「エロス(愛欲)の旅」として一貫している。本書には古代の美術・建築への陶酔や博物学的好奇心が溢れているが、その原動力にあるのはポリフィロのポリアへの恋慕すなわちエロスであるfpba.com。興味深いのは、そのエロスが物語の進行につれて徐々にトランスフォーム(変容)していく点だ。ポリフィロは愛するポリアを求めて遍歴する中で、彼女個人への情熱を建築や彫像といった「美そのもの」への情熱へと昇華させていく。彼が夢の中で出会う古代の神殿や庭園、彫刻の数々に注がれる熱情は、単なる好奇心を超えて明らかに官能的・陶酔的であり、「美への愛」が理知的理解を超えて彼を恍惚境地に誘うと評されているfpba.com。実際、ポリフィロが手で触れることのできる有形の美(建築や工芸品)について語る熱狂ぶりは、そのまま肉体的エロスを凌駕する歓喜となって表現されているfpba.com。言い換えれば、ポリフィロにとってエロスとは単にポリア個人への性愛に留まらず、古代の美や自然の壮麗さに対する包括的な憧れであり崇敬であった。こうしたエロスと芸術・美術の結合は、本書の大きなテーマの一つである。
物語のクライマックスは、まさにこのエロスが神話的次元で成就される場面として描かれる。長い遍歴の末にポリフィロはついにポリアと再会し、ニンフたちに導かれて愛の女神ヴィーナス(アフロディーテ)が支配する楽園の島、キュテラ島へと舟で渡るen.wikipedia.org。その舟の水先案内を務めるのは他でもない愛の神キューピッドであり、エロスそのものが二人を聖なる島へ導くという趣向になっているen.wikipedia.org。島に上陸した二人を待ち受けるのは壮麗な行進と祝祭である。彼らの結合(ユニオン)を祝う五つの凱旋行列が繰り広げられ、ヴィーナス神殿での婚礼儀式へと至るまで、夢の世界は官能と祝祭の極致を迎えるen.wikipedia.org。ここではポリフィロとポリアの個人的恋愛が神話的宇宙に溶け込み、エロスが宗教的次元で肯定され昇華されたかのように描かれている。かつてポリアは純潔を誓い「狩猟の女神ディアナ」の庇護下にあったが、最終的にはその誓いを捨ててヴィーナスとクピドの愛の神々に身を委ねるfpba.com。この転回は、禁欲(アスケーシス)よりも愛と美が勝利することを暗示する象徴的なエピソードであり、古代神話の枠組みを借りてエロスと芸術(美)の優位が謳い上げられていると読めよう。
さらに注目すべきは、本書においてエロス・芸術・神話・宗教が渾然一体となっている点である。物語中には豊穣と快楽の神プリアポスへの供物の場面すら登場しfpba.com、性愛と宗教的祭儀とが紙一重の親密さで描かれている。ポリフィロが夢の中で目にするすべてのもの──精巧なオベリスクや噴水、彫像や宮殿──は、彼の欲望を映し出す鏡であると同時に、古代の神々への賛美としても機能している。愛の歓喜は芸術の賛美と不可分であり、芸術を愛でることがそのまま信仰儀礼のような厳かさを帯びるのである。ルネサンス人文主義の素地の上で、異教古典の神話と中世的な夢幻の形式とが出会った本書では、エロス(欲望)とアガペー(崇高な愛)、美の崇拝と宗教的情熱とが一体となった不思議な世界観が立ち現れている。それゆえ『ポリフィルス狂恋夢』は単なる官能的ロマンスではなく、「美と愛の神秘教説」ともいうべき深みを備えた作品として解釈することも可能なのである。
第二部と語りの転回
物語は終盤で大きな語りの転換を迎える。ポリフィロとポリアが愛の勝利を祝うキュテラ島での祝祭が最高潮に達したその時、突如として物語の語り手がポリフィロからポリアへと交替するのであるen.wikipedia.org。いわば夢物語の「第二部」が始まる形で、ここからポリア自身の声で過去の経緯が語られ出すen.wikipedia.org。彼女はポリフィロの「狂おしい求愛」を自らの視点から綴り、なぜこれまで彼を拒み続けてきたのか、その心境を打ち明ける。ポリアによれば、彼女はかつて疫病の流行する中で貞潔を誓い、情欲を遠ざけることで身を守ろうとしていたpublicdomainreview.org。ポリフィロに幾度となく迫られても「汚されたくない(contaminata)」との思いから拒絶を貫いていた彼女だが、あるとき恐るべき悪夢に襲われるpublicdomainreview.orgpublicdomainreview.org。夢の中で翼を持つ少年(キューピッドのような存在)が純潔を守る娘たちを次々に容赦なく切り刻む幻を見たポリアは、愛を拒み続ければ世間の暴力に晒されるのだと悟らされるpublicdomainreview.org。この凄惨な夢のおかげで彼女の心は折れ、ついにポリフィロへの愛を受け容れる決意をしたというのであるpublicdomainreview.org。
ポリアの一人称によるこの告白は、16世紀の物語としては驚くべき趣向であり、学術的にもほとんど言及されてこなかった大胆な仕掛けだと指摘されているpublicdomainreview.org。すなわち男性主体の夢物語の中に突如、女性当事者の語りと夢を挿入するという構造上の反転が起きることで、作品は単なる男性の幻想譚に留まらない深みを獲得しているのである。ポリアに「声」を与えたことで、ポリフィロの一方的な狂熱の陰で何が起こっていたのか、恋愛の受け手である女性の心理と当時の社会的圧力とが鮮やかに浮かび上がるpublicdomainreview.org。献身的で従順な理想像として描かれがちな恋愛譚のヒロインに、自身の夢を見る主体性を与えた点において、本書は物語構造上きわめて先駆的であり挑発的でもある。さらに興味深いのは、ポリアの語りがそれまで広大に拡張されていた夢のスケールを一気に収縮させることである。壮麗なヴィーナスの島での幻想的場面から一転し、ポリアの語りは出発点である15世紀トレヴィーゾの「現実世界」へ読者を引き戻す。夢の源泉となったポリアの密室(ディアナの祠や寝室)という私的空間がクローズアップされることで、ポリフィロの放浪した世界が再び現実の基盤に接続される構造になっているのだpublicdomainreview.org。
やがてポリアの語りが終わると再び筆致はポリフィロに戻り、物語は結末へと収斂していく。ポリアの受容によってついに二人の愛は成就し、ポリフィロは歓喜の絶頂で愛する女性を腕に抱こうとする。だがその瞬間、ポリアはかき消すように姿を消してしまうen.wikipedia.org。ポリフィロは目を覚まし、愛する人を失った現実の夜明けの中にただ独り取り残されるfpba.com。夢の中で得られた至福は幻と帰し、主人公には虚脱と覚醒だけが残されたのである。物語の第二部で一旦は恋愛譚の完成形が提示されただけに、この幕切れは読者に強い余韻と問いを投げかける。夢の中で経験された愛の歓喜は果たして無意味だったのか、それとも現実を超えた次元で何かが達成されたのか──作品は明言しないまま読者を現実に放り戻す。この結末部の語りの転回と断絶こそ、本書が単なる夢物語以上の含意を持つゆえんであり、同時に本書が自らの創作の謎と向き合う最もラディカルな身振りだと論じられているpublicdomainreview.org。夢から覚めたポリフィロが手にしたものは何だったのか、その問いはそのまま著者コロンナが本書を通じて読者に投げかける謎でもあるのだ。
結語:芸術と神秘の総合としての書物
『ポリフィルス狂恋夢』は、その内容と存在自体が芸術と神秘の結合を体現した比類なき書物である。まず物質的側面において、本書はルネサンス印刷工芸の粋を集めた「読む美術品」とでもいうべき存在だ。初版はアルド・マヌーツィオの手によるタイポグラフィと綿密なレイアウト、そして168点にも及ぶ精緻な木版画挿絵が渾然一体となり、一頁一頁が完璧な視覚構築物となっていたfpba.com。文字と図版が見事に調和したその造本は、後世「書物の奇跡」とまで称賛されるfpba.com。Thames & Hudson版英訳書はその視覚的魅力を現代に甦らせることに成功しており、英語という言語媒体を通して我々は当時の読者と同じようにこの書物の美を体感できるfpba.com。そして内容的側面では、本書ほど多層的な意味と象徴、美学と神秘性を孕んだ作品は他にない。夢という枠組みを採用しつつ、恋愛・神話・建築・言語遊戯・寓意・博物学などあらゆる要素を融合させた物語は、まさに総合芸術的な想像力の産物である。ルネサンス期の人文学的知識の宝庫であると同時に、情欲と美への限りない陶酔が込められた耽美的ロマンスでもあり、さらに深読みすれば神秘思想や心理的寓意にも通じる底知れなさがある。
哲学的観点から見ると、『ポリフィルス狂恋夢』の根底には「夢と現実」「欲望と超越」という普遍的テーマが横たわっているように思われる。そもそも本書の副題からして「人間の全てのことは夢以外の何ものでもないこと、そして思考に値する他の多くのことが語られます」とうたわれておりobjecthub.keio.ac.jp、人間界の現実が儚い夢のごときものであるという示唆が与えられている。物語の最後でポリフィロが直面したように、我々の欲望や歓喜は現実においては霧消しうる幻に過ぎない。しかし同時に、夢の中で彼が垣間見た「愛と美の極致」は、単なる幻として片付けるにはあまりに崇高である。夢の中の体験であれ、それが人間にとって真実以上の真実、超越的な価値を持ちうるのではないか──そうした逆説が本書には秘められている。この夢物語においてポリフィロが追い求めた究極のポリア像、美神ヴィーナスの祝福する愛の結合は、彼にとって現世の論理を超えた次元で一度は実現したものであった。それが夜明けとともに消え去ったとしても、ポリフィロの魂は何らかの変容を遂げているのかもしれない。読者は夢オチの結末に一瞬戸惑いながらも、現実世界に戻ったポリフィロの胸中に以前とは異なる悟りや喪失の痛みを感じ取るだろう。まさに本書は、夢という形而上の舞台で欲望を極限まで追求しながら、最後に現実へと読者を連れ戻すことで、夢と現実の二元性そのものを劇的に提示しているのであるpublicdomainreview.org。
総じて、『ポリフィルス狂恋夢』は一冊の書物の中に芸術と知の神秘的統合を実現した作品だと言える。アルド・マヌーツィオの精緻を極めた印刷術とコロンナの奔放華麗な想像力とが融合したこの書物は、まさしくルネサンス的精神の申し子であり、その魅力は500年以上経た今日でも褪せていない。愛と美と夢に関する尽きせぬ象徴性ゆえに本書は「解読され尽くすことのない謎」を孕み続け、読者に新たな思索を促すpublicdomainreview.org。そして同時に、ページを開けば目前に広がるタイポグラフィと図像の饗宴は、書物という芸術形式の頂点に触れる喜びを現代の我々にももたらしてくれる。Thames & Hudson版英語訳により、この芸術と神秘の総合体とも言うべき奇書が我々にも手の届くものとなった意義は大きい。本書を通読することは決して平易な旅ではないが、その迷宮を抜けた先に立ち現れるのは、人文学と芸術の豊饒な融合が生み出す魂の滋養であろう。夢と愛の闘争を描いたこの奇書は、今後も読む者を魅了し、解釈という名の戦いに誘い続けるに違いない。fpba.comobjecthub.keio.ac.jp
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