『スッタニパータ』における理法と輪廻の認識構造 ― 原始仏典に見る釈迦の思想
原始仏典としての位置づけ
『スッタニパータ』(Sutta-Nipāta)は、パーリ語経典『小部』(Khuddaka Nikāya)に収められた初期仏典のひとつである。紀元前5世紀ごろ、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)が弟子や信者に対して語った言葉を詩形式で編纂したものであり、仏教の最古層に属する原始仏典として知られている。中村元による日本語訳『ブッダのことば』(岩波文庫)は、その明晰な注釈とともに、仏教思想の原型を現代日本語において理解する上で重要な文献である。
理法(ダルマ)の思想構造と現代的難解性
『スッタニパータ』が説く理法(ダルマ)は、欲望・執着・識別作用といった人間の内的構造がどのように「世界」を構築し、そこから苦と輪廻が生じるかを明らかにする哲理体系である。たとえば、「名称」と「形態」が五感によって生起した現象に結合し、それを「我が体験している」と認識することで、「自己」という幻想が生まれる。これは仏教における「無明」(avidyā)の端緒であり、輪廻の始点とされる。
現代においてこの教えを忠実に実践することはほとんど不可能に近い。なぜなら『スッタニパータ』に描かれる修行者像は、世俗を捨て、財を持たず、孤独を愛し、衣食住にすら執着をもたない、いわば「無職のホームレス」に近いものであり、そのような生存形態は現代資本主義社会において成立しがたいからである。
渡河と覚醒の比喩
仏教では、悟り(解脱)に至る過程をしばしば「激流を渡る」比喩で表現する。現世(此岸)からニルヴァーナ(彼岸)へ至るには、執着という流れに逆らって舟を漕ぎ、荒波を越えなければならない。『スッタニパータ』の中でも、煩悩と無明の海を渡る「目覚めた人(ブッダ)」の姿がしばしば歌われる。
だが、これを現代的認識論に置き換えれば、人間の精神構造が構築する「世界(lokā)」とは、感覚刺激に脳が与えた「名称と形態」(nāma-rūpa)の虚構であり、これはまさに五感の投影による一種の拡張現実(AR)に等しい。
比較:『死者の書』との対照構造
興味深いのは、チベット密教の経典『バルドゥ・ソドル』(通称『チベットの死者の書』)との思想的対照である。原始仏教では「欲望の消滅」による解脱が強調されるが、『死者の書』ではその逆に「欲望を解放し、欲望の本質を透過的に見る」ことで、欲望を智慧へと転化させる方法がとられている。すなわち、煩悩即菩提の思想である。
密教においては「性」「怒」「狂」など否定的情動すらも覚醒の手段と見なされうる。『スッタニパータ』におけるストイックな禁欲主義が、密教では歓喜の陶酔的マンダラへと転換されている。この差異は、思想の深度というよりも、アプローチの方向性における根本的な違いである。
無明と覚知 ― ヘルメス思想との接点
ヘルメス・トリスメギストスの文書群(ヘルメス文書)においても、「無明」(ignorantia)は世界の混沌の原因とされる。そこでは「自己を知ること」(gnōthi seauton)が唯一の救済とされ、宇宙的知性(Nous)への接続によって人間は「死者の眠り」から目覚める。この思想は、『スッタニパータ』における「目覚めた人(ブッダ)」と本質的に共鳴する。
仏教における「輪廻」は、この識別機能が生み出した仮想空間に囚われた意識が、同様の構造を持つ生存形態を繰り返す過程である。ヘルメス的にはそれは「階層宇宙における下降」と呼ばれ、グノーシス的昇天が必要とされる。
妄執の科学的=比喩的解釈
科学的な語彙をあえて導入するならば、人間の「自己」や「世界」は、感覚器官が捉えた物理的刺激(光・音・分子)に対して、神経系が意味づけと記憶操作を施すことによって構築された、情報処理系の「錯視」である。五感によって入力された「元素の結合体」を、名称と形態が即座に「私が今、体験しているリアル」と誤認する――ここに妄執の起源がある。
その意味で、「解脱」とは五感と名称形態による“再帰的反射”を遮断し、「すべてが仮象である」と認識する知的覚醒のことを意味する。
結語に代えて ― 余白と風刺
筆者は釈迦のように清浄であるわけでも、ヘルメスのように高次知性に接続しているわけでもない。ただ、かつて17歳の思春期に『ブッダのことば』を手にし、「世界のすべてが意味を持っているかのような気配」をかすかに感じたのだった。
だが、星が運行しなければ出会いは訪れず、原子が偶然結合しなければ愛も病も訪れない。ブッダの理法を宇宙論で笑うか、あるいは理法の中に宇宙を感じるか。それはあなたのカルマ次第である。
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