【ブッダ 悪魔との対話】サンユッタ・ニカーヤⅡより──四つの逸話と「生存の素因」
【サンユッタ・ニカーヤⅡ】「ブッダ 悪魔との対話」中村元訳・岩波文庫〜紹介と感想 悪魔との対話』(中村元訳)第1集・第4篇・第3章に収められた特異な逸話群を紹介・考察するものである。
1. ゴーディカ尊者と最期の解脱
「仙人の丘」にある黒曜石の岩窟にこもり、精神統一を繰り返していたゴーディカ尊者は、六度の解脱体験を得ながらも、そのたびに境地から退いていた。七度目の到達を果たした際、ついに尊者は決意する。「これ以上、退くわけにはいかぬ」。彼は生を断ち切る覚悟に至る。
その動きを察知した悪魔が仏陀に報告する。「あなたの弟子が自害しようとしています」。しかし仏陀は、静かにこう応える。
「思慮ある人々は、生命の延命を願わぬ。妄執を断ち切り、ゴーディカは安らぎに帰したのだ」。
仏陀と弟子たちが岩窟に赴くと、ゴーディカの亡骸の周囲には朦朧とした煙のようなものが漂っていた。仏陀は言う。
「これは悪魔が彼の“識別能力”を探しているのだ。しかし彼は完全なるニルヴァーナに入った。ゴーディカは完全に消え去ったのだ」。
2. 解脱は飛び魚のように
別の経では、解脱とは「飛び魚のようなものだ」と説かれる。すなわち、水中から一瞬跳ね上がるように、断続的であっても解脱の境地は垣間見られる。だが重要なのは、それを維持することである。
この教えは、死後の救済ではなく「生きている今この瞬間」における完成を求めるものだ。迷いの百年より、一瞬の覚醒が意味を持つ。これは仏教における「即時性」の一側面である。
3. 三人の悪魔の娘たち
悪魔マーラには三人の娘がいた。愛執・不快・快楽。彼女たちは、失意に沈む父からその理由を尋ねる。仏陀を堕落させることができなかったというのだ。娘たちは父の願いを叶えるべく、仏陀のもとへ赴く。
彼女たちはそれぞれ100人の女人に変化し、若き乙女から成熟した女性まで、300人の姿をもって仏陀に迫る。しかし仏陀はすでに「生存の素因」を破壊し尽くしていた。いかなる誘惑も届かなかった。
娘たちが帰還したとき、悪魔はこう言った。
「愚か者どもよ、そなたらは蓮の茎で山を砕き、爪で岩を掘り、歯で鉄を噛み、底のない淵に足場を求めているのだ」。
この一節は、煩悩によって解脱を崩そうとする試みの空虚さを象徴している。
4. 「七年」の執着
悪魔は七年もの間、仏陀の隙を伺って付きまとった。あるとき彼は、蟹の譬喩を用いて自らの失敗を語る。
「蟹が水から引き出され、少年少女に囲まれる。彼がハサミを上げれば、それは木片や石で壊されるだろう。同じように、お前(仏陀)の心からは、すべての執着が断ち切られ、もはや私が入り込む隙間はない」。
これは、執着が破壊されることで、悪魔の支配が終焉するという教訓的描写である。
5. 生存の素因と現代的実感
仏教では、「生存の素因(Bhava)」とは、輪廻転生を引き起こす心的動因である。愛執・無明・渇愛などがその根源とされる。
それがもし物理的に“断ち切れる”のであれば、火のメスでも鋼鉄のハンマーでも構わないから打ち砕いてほしい。私たちはネット依存や暴飲暴食からは何とか抜け出せても、なぜか自己慰撫の習慣などには抗しきれない。
この汚穢に満ちた皮膚袋=身体を、なおも心が執着してやまないのはなぜなのか?──”五つの激流と第六の激流”を渡りきる道の遠さを、これらのエピソードは痛烈に突きつけてくる。
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