ボードレール『悪の華』原文講読|冒頭詩「読者に(Au Lecteur)」を読む
250年以上の時を越えて、ボードレールは『悪の華』の冒頭で、私たち読者に直接語りかけます。 師であり友であったテオフィル・ゴーチェへの献辞に続くのは、名高き序詩「読者に」――この詩こそ、作品全体に流れる悪の美学と、精神の地下水脈を予告する”洗礼”のような詩です。
「悪の華」の洗礼詩:「読者に(Au Lecteur)」
詩の冒頭はこう始まります:
La sottise, l’erreur, le péché, la lésine, Occupent nos esprits et travaillent nos corps,
(愚かさ、誤謬、罪、吝嗇―― それらが我らの精神を占め、肉体を支配する)
この詩はまるで呪文のように、読者を“悪の共同体”へと導きます。16世紀の詩人テオドール・アグリッパ・ドービニュの詩句も引用されており、それはこう語ります:
「背徳のその母は知識にあらず 美徳は断じて 無知の産む娘にあらず」
つまり、『悪の華』において“悪”とは忌むべきものではなく、むしろ人間の根源的本質。ボードレールは、その真実と対峙する覚悟を読者に求めているのです。
「un peuple de Démons」――脳内で酒宴を開く悪鬼たち
Serré, fourmillant, comme un million d’helminthes, Dans nos cerveaux ribote un peuple de Démons,
(数限りない回虫のようにうごめき凝縮し、 我らの脳内で酒宴を繰り広げる悪魔の一団)
Et, quand nous respirons, la Mort dans nos poumons Descend, fleuve invisible, avec de sourdes plaintes.
(息を吸うたび、見えざる死の河が鈍い呻きを立てて肺を流れゆく)
この描写が意味するのは、”悪”が外にあるのではなく、我々の内にこそ巣食っているという真理。呼吸ひとつにも死が混ざる、この世界の不吉な本性を、詩は冷たく照らします。
「l’oreiller du mal」――悪の枕に揺られて
Sur l’oreiller du mal c’est Satan Trismégiste Qui berce longuement notre esprit enchanté,
(”悪の枕”にて、サタン・トリスメギストスが 魅惑された精神を長く揺すり眠らせる)
「サタン・トリスメギストス」は、ヘルメス・トリスメギストス(錬金術の象徴)の名をもじったもの。彼は精神を黄金に変えるのではなく、逆に意志という“貴金属”を蒸発させる地獄の化学者として描かれます。
眠りの中で私たちは知らぬ間に、堕落と誘惑の手により、意志を奪われているのかもしれません。
最後の告白:「monstre délicat」――繊細なる怪物とは
「人間の背徳を飼う汚らわしき動物園に、更に醜悪・奸智に長け・不潔極まる獣物一匹――
読者よ、君はこれを知る。この微妙なる怪物を。
偽善なる読者よ、我が同類よ、我が兄弟よ」
ボードレールが”繊細なる怪物”と呼ぶもの――それが l’Ennui(倦怠) です。
それは破壊や情熱すら伴わない冷たい悪徳。行動もしない、考えもしない、ただ人を空虚にする“善にも悪にもなりきれぬ最大の敵”です。
ボードレールは言います。君もまた、この怪物を飼っているのだと。
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