若くして逝った詩人
日本文学史に輝く素朴な彗星、中原中也は1907年に現山口県湯田温泉に出生した。その後わずか30年後の昭和12年、30歳の若さで彼は夭折することになる。
夭折という言葉を覚えたのも彼の年表を見ながらだったと思う。私が15〜16の頃出会った中原は、「月夜の浜辺」という作品で国語の教科書に載っていた。授業中に教師の話を聞かず私は「羅生門」とか中原の詩とかを勝手に読んでいた。
早弁と中原中也
サボリながら、たまに早弁をしつつ、中原の世界に浸る(早弁とは昭和の頃に一部で流行した反体制行為で、正午がくる前の授業中などに持参の弁当を食う行為である)。簡潔な文句なので容易に想像できる背景、ごくありふれた身近なものからポエジーを汲み取る中原の才能は「月夜の浜辺」にも明瞭に見て取れる。
「月夜の浜辺」ウォークスルー
美しい月夜、満月か否かは不明だが、極めて明るい夜、海の波に月の光が反射している。波は静かに押し寄せては泡となって消えるのだった。死の恐怖や自己嫌悪はない。宗教感情もない。
音響は波の音と、詩人の砂浜を歩むサクッサクッ、という小さな足音が聞こえる。あとは聞こえるともない夜の音があるだけ。
そんな折、一人ぼっちの散策者の足元に、思いもかけないオブジェがあったんだとさ。
海と、月と、夜と砂浜、と自分、それだけかと思っていた。なのに「ボタン」が一つであるが、波打ち際に落っこちていたんだ。
それはおそらく超常現象でもなく、足跡が波に呑まれて消えてしまう前に、ここを同じように歩いた誰かの袖か胸元あたりから落ちたのだろう。
波打ち際に落ちていたということはあるいは、どこか知らない土地から流れ着いた漂着物でもあろうか。何れにしても
いろいろとファンタジーの空想を広げるためのネタになりうるオブジェである。
それは見知らぬ人と詩人を空想で繋いだのであるが、相手は中原のことなどどうでもよく、今頃どこかの葬式に出ているかもしれぬ。
それでも中原中也という人間は些細な出来事にロマンを感じやすく出来ていて、こういう国語の教科書に載るような詩を書くのである。
まとめ
最後に拾ったボタンが指先と心に沁みた(という表現テクを詩人は使っている)理由については、ボタンというものは人が使用するモノとして洋服の前か袖を留めるために糸で縫い付けられており、両手の5本の指先が最も繊細に触れる部分なのである。
中原中也は間接的に知らないボタンの持ち主と時空を超えて触れ合ったような気がしたのであろう。彼のように想像力が人一倍豊かであれば当然である。