ロートレアモン『マルドロールの歌』には、あらすじなど存在しない
渡り鳥と無限の比喩
冬の空を飛びゆく渡り鳥の群れ。そのV字編隊の軌跡を見るたび、私はロートレアモンの『マルドロールの歌』を思い出す。この作品は、ある日常の光景から「無限」そのものを喚起させるほど、強烈な文学的力をもっていた。
かつて福武文庫で読んだこの一冊に、私は20代の情熱を燃やした。中二病的な反抗文学と誤解されがちだが、本作は綿密な構成と象徴によって組み上げられた、詩的建築物とも言うべき作品である。
第1歌〜第2歌:破壊から始まる創造
『マルドロールの歌』の前半は、憎悪と狂気に満ちた言葉の奔流が、読者を圧倒する。とりわけ第1歌は混乱と錯乱の極致に見えるかもしれない。しかしこれは、伝統的な詩の定型を意図的に破壊する行為であり、詩とは何か、文学とは何かという問いを読者に突きつける宣言でもある。
やがて文体は整い、構造は明確になっていく。激情が収まるわけではない。むしろそれは、緻密に制御された力として再び噴出する。まるで神の怒りが形を変えて再臨するように。
彼の筆は、言語という記号体系をローラーで踏み潰しながら、その下にある「意味」や「イデア」を掘り起こしていく。
文字とロゴス
読者はやがて気づく。ここでは、文字はもはや音に変換されるべき記号ではなく、「沈黙するロゴス」の表象であることに。
文字に意味があるかどうかではない。それを超えて、我々には発音されざるもの──イデアを知覚する潜在力がある。
美、beauty、ομορφιά──言語や表記は違えど、根底にある理念はひとつだ。それこそが、言語が到達しようとする原型(アルケー)であり、混沌としたテキストの中からさえ読み取られる本質である。
テレパシー的読解
『マルドロールの歌』は読むのではなく、感じるものだ。まるでテレパシーのように、発音や文字を介さず、ロートレアモンと直接思念を交わすような読解が求められる。
それはブレイクを読むとき、あるいはヘルメス文書を解読しようとするときと同様に、読者に“超感覚的知覚”を要求する。
同様にプラトンやデカルトの哲学も、本来はそのように読むべきものだったのではないか。
言葉の摩耗と真の理解
問題は、読者がプラトンやデカルトの文章を「理解できる」と思い込んでしまっている点にある。
その言葉が模倣され、反復され、誰の口にも上るようになったとき、それはもはや知覚を促さない「味気のない言葉」となる。
使い古された概念は、いかに美しい言葉で語られても、読者の心を揺さぶる力を失ってしまうのだ。
かつてミルトンがダンテを破壊し、ブレイクがミルトンを破壊し、ロートレアモンがそのすべてを破壊した。
そして誰も、彼の偉業を越えることはできていない。
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