第一の圏では「高慢」が、第二の圏では「妬み」が罰せられている。これらの「七つの大罪」を浄化しながらダンテらは煉獄の山を登る。
第13歌〜嫉妬
煉獄の第二の環道では嫉妬羨望の罪が罰せられている。すなわち魂たちは瞼を針で縫い付けられており、ありがたい太陽と神の光を見ることができないのだった。
第一の環道と違って崖にも路面にも何も彫刻はなかった。するうちダンテとヴェルギリウスの元に光る御霊の一群が現れる。「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という、あの殺人の衝動を抑える言葉を残して飛び去った。
哀れな魂たちの訴えを聴きながら二人は進んだ。
第14歌〜羨望
妬みとは人間特有の感情である。それを悪だと認識する人は少ない。
他人の不幸を聞くと憐れみと同時に「私はまだましだ」、という安堵の胸を撫でおろすのは普通のことだ。他人と比較して自分の不平不満や不幸を慰める。それによって夜安眠することができる。
その対極として自分より恵まれている人や、幸福だと思われる人に対しては嫉妬・羨望する。「あの人は私より幸福だ。私の方が不幸だ」と考えることは、自分を惨めにする。
リア充製造機であるSNSやインスタは「私は幸福だ」と周りにアピールするツールとも言える。従ってそれを見た非リア充の人々は、なんとも言えない不快な思いに浸る。
素直に他人の幸せを祝福することができる人は、自分も同等かそれ以上に幸せだと感じているかであろう。
なぜなら人間の幸福とは澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」でも書かれているように、単なる不幸の欠如である。それは他人との比較によって編み出されたものであり、人間の真の欲望の反映である快楽とは異なる。
快楽が刹那的な大爆発のような現象だとするならば、幸福はぼんやりとした継続的な状態と言える。文明の進歩とは幸福の追求であり、快楽の追求ではない。
やがて天からの大きな叫びのように、嫉妬羨望への戒めが雷鳴のように轟いた。
◯澁澤龍彦「快楽主義の哲学」についてはこちら→澁澤龍彦【快楽主義の哲学】と奇妙な三角形
第15歌〜暗闇
眩い光を纏った天使が再びダンテらの元へ現れた。天使はダンテの"P"の文字をまた一つ消した。残るは5つである。
気がつくや第三の環道へ来ていた。ダンテは夢遊病患者のように立ったまま歩きながら、迫害され怒れる血と狂気の幻想に囚われた。
目を覚まし師匠に幻の説明を受けるや、夜のような黒い煙が近づいて二人を暗闇が包み込んだ。
まとめ
ダンテたちは第三の圏へと足を踏み入れる。ここでは「怒りの罪」が浄化されている。
これら七つの大罪の名前を聞いていて、デビッド・フィンチャー監督・ブラッド・ピット主演の「セブン」を思い浮かべる方もおられるだろう。
「セブン」ではサイコの犯罪者が七つの大罪を罰するという大義名文のもとに、次々に人を殺していく。そして最後に怒りの罪により、ブラッド・ピットは女房を殺されて腑抜けになり、殺人犯その者は平凡な結婚生活への妬みの罪により、ブラッド・ピットに撃たれて死ぬ。
また「セブン」ではブラッド・ピットが「神曲」を捜査のために読み、ダンテを「大ボケのカマ詩人」と呼んでなじるシーンがある。
「煉獄篇」はその映画と違い、七つの大罪は魂の浄化作用の段階を説明するツールとなっている。