原宿ホコ天の時代:竹の子族とバンドブームが生んだ若者文化の聖地

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原宿ホコ天:竹の子族からバンドブームへ、青春が駆け抜けた歩行者天国

歩行者天国の発祥と原宿ホコ天の仕組み

東京都内で初めて歩行者天国(ホコ天)が実施されたのは1970年8月2日、銀座・新宿・浅草・池袋の目抜き通りでしたurbanlife.tokyo。当時の美濃部亮吉都知事と秦野章警視総監の発案による「ノーカーデー」施策で、週末に都心の幹線道路を車両通行止めとし、歩行者に開放したのが始まりですurbanlife.tokyo。こうした動きは全国に広まり、1970年代後半には原宿も若者文化の一大拠点となっていきましたurbanlife.tokyo。原宿のホコ天(原宿歩行者天国)は1977年6月に表参道(原宿駅前〜青山通り約1km)でスタートしurbanlife.tokyoomoharareal.com、以来約20年間にわたり主に日曜・祝日の正午頃から夕方まで車両を締め出して実施されました。実施時間中は警察が道路をバリケードで封鎖し、日曜は午前11時から夕方6時まで自動車進入禁止とするルールで運用されていたと伝えられていますnote.com。元々ホコ天は「あくまで道路を歩行者に解放する」施策であり、路上パフォーマンスや演奏行為は公式には許可されていませんでしたurbanlife.tokyo。しかし現場では徐々に若者たちが自前の音響機材を持ち込み、音楽演奏やダンスなど思い思いの表現活動を繰り広げるようになっていきました。

竹の子族・ローラー族から始まる若者文化

日曜に車道を解放した原宿ホコ天は、すぐさま若者サブカルチャーの舞台となりました。1977年に原宿で歩行者天国が始まるとまもなく、50年代風のリーゼントに革ジャン姿でロカビリー音楽に合わせて踊る**「ローラー族」が出現しurbanlife.tokyo、続いてカラフルな衣装でディスコ調のダンスを披露した「竹の子族」**が爆発的ブームを巻き起こしましたurbanlife.tokyo。歩行者天国となった表参道沿いは踊る若者と見物人で毎週溢れかえり、道が人で埋め尽くされるほどの賑わいでした。当時は血気盛んな若者も多く、グループ間の小競り合いやケンカもしばしば起こりましたが、それでもホコ天は彼らにとって貴重な自己表現の場だったのです。こうしたパフォーマーの要望やトラブルの増加もあって、1980年にはホコ天実施エリアが原宿駅から代々木公園側へと拡大されましたurbanlife.tokyo。ホコ天発のサブカルはメディアでも頻繁に取り上げられ、竹の子族出身の沖田浩之(後に俳優デビュー)や、1984年に登場したパフォーマンス集団「一世風靡セピア」から哀川翔・柳葉敏郎ら後の芸能人も輩出していますurbanlife.tokyo。まさに原宿ホコ天は、昭和末期における若者文化の発信地として熱狂的なエネルギーに満ちていました。

バンドブームの震源地となったホコ天

1980年代後半になると、原宿ホコ天はアマチュアバンドの聖地へと姿を変えます。ちょうどこの時期、日本では「自分たちもバンドを組もう!」という空前のバンドブームが巻き起こっていましたpex.jppex.jp。学校でもクラスの何人もがギターを持ち寄り、「とりあえずバンド」を組むのが当たり前という風潮で、10代の若者たちにとってバンド活動が人生の必須事項のようになっていたのですurbanlife.tokyopex.jp。こうした熱気の中、腕試しと自己アピールの場として人気を集めたのが日曜の原宿ホコ天でしたpex.jp。エレキギターやドラムセットを車に積み込み、夜明け前から現地に乗り付けて場所取りをするバンドも現れましたpex.jp。場所取りは早い者勝ちという不文律があり、機材車の無いグループは路上にガムテープでバンド名を書いてスペースを確保するなど、ストリートならではの工夫も生まれましたpex.jp。日曜午前中はバンド側が旗立てや機材降ろしに勤しみ、ファンたちもそれに合わせて朝から集まって手伝ったり一緒に食事をしたりと、演奏前の「時間の共有」まで楽しんでいたといいますpex.jp。演奏が始まれば道路は即席のライブ会場と化し、ホコ天はバンドマンにとって欠かせない登竜門となりましたpex.jp。実力や個性が光るバンドは噂が噂を呼んで観客を増やし、最盛期には一日70~90組ものバンドが路上ライブを敢行し、中には1回の演奏で1000人以上の人垣を集める人気バンドも登場したほどですpex.jp。実際、1989年の歌手・美空ひばりさんの葬儀当日ですら、ホコ天の若者バンドたちは「元気に明るく歌い続けていた」と当時の週刊誌が伝えるなど、そのエネルギーは時事すらも凌駕していましたpex.jp。原宿ホコ天こそ、80年代末のバンドブーム震源地として日本中の注目を集める存在となったのですpex.jp

「イカ天」ブームと日本のバブル景気との関係

ホコ天のバンド熱をさらに加速させたのが、1989年2月に始まった伝説的な深夜番組『平成名物TV・三宅裕司のいかすバンド天国』、通称「イカ天」でしたurbanlife.tokyo。毎週10組の無名バンドが生演奏で勝ち抜き戦を繰り広げるこの番組は一躍大人気となり、「イカ天」に出場・優勝すればメジャーデビューへの道が開けるとあって、全国のアマチュアバンドが熱狂しました。イカ天で名を挙げたバンドのみならず、イカ天には出ていないホコ天常連のインディーズバンドにもスポットが当たり、彼らの演奏目当てにさらに多くの若者が原宿へ押し寄せる好循環が生まれましたurbanlife.tokyo。折しも世の中はバブル経済の絶頂期(1980年代後半)で、若者たちも比較的裕福で心に余裕があり、ホコ天のような「騒いでも許される空間」を享受できた側面がありますurbanlife.tokyo。実際、煌びやかなファッションに身を包み高価な楽器を抱えて路上パフォーマンスをする姿は、浮かれ気分のバブル景気を象徴する風俗でもありました。しかし1990年代初頭にバブルが崩壊し景気が後退し始めると、社会全体が「浮かれた騒ぎ」に冷ややかになっていきますurbanlife.tokyo。加えて、ホコ天の人出の多さによる治安悪化への懸念が行政や世間で問題視されるようになりましたurbanlife.tokyo。バブル期には寛容だった「人が大勢集まって騒ぐ」という行為も、経済停滞期には危険視され、「人がたまれば事件や犯罪が起きる。ならば集まれなくしてしまえ」という風潮が強まっていったのですurbanlife.tokyo

観光名所ともなった若者の聖地

1980年代を通じ、日曜の原宿ホコ天は単なる路上イベントの枠を超えて社会現象となりました。原宿という街自体が「行けば何か面白いことが起きている」と若者に認識され、週末ともなれば目的もなくともとりあえず原宿に繰り出す中高生が続出しましたpex.jppex.jp。ホコ天は「若さゆえ何をやってもいい場所」とも形容され、派手なファッションに身を包んだダンサーやロック少年少女たち、家出中の少女グループ、さらには天皇制に抗議するアナーキーな団体までが入り乱れるカオスな空間でもあったようですpex.jppex.jp。その独特の熱気は海外メディアにも注目され、原宿ホコ天で踊る竹の子族やロックバンドの群衆は、日本の若者文化を象徴する光景としてたびたび雑誌やドキュメンタリー映画に取り上げられましたnote.com。観光ガイドブックにも「日曜の原宿に行けば奇抜なファッションの若者が見られる」と紹介され、外国人旅行者や地方からの修学旅行生なども見物に訪れたほどです。実際の人出も凄まじく、ホコ天最盛期の年間延べ来場者数は約277万人に達したとの記録もあります(1日平均にすると5〜6万人規模)n510.com。まさに原宿ホコ天は、80年代の東京における週末最大の観光名物であり、若者の街・原宿を象徴する「カルチャーの誕生する場所」そのものだったのですfashionsnap.com

バンド募集雑誌『BANDやろうぜ』が果たした役割

1980年代後半から90年代前半のバンドブームを支えたものの一つに、宝島社が発行した月刊音楽誌『BANDやろうぜ』(通称:バンやろ)があります。創刊は1988年8月でja.wikipedia.org、ちょうどホコ天発のインディーズ熱とシンクロするように誕生したこの雑誌は、10代バンド少年少女に絶大な支持を集めましたja.wikipedia.org。誌面では人気バンドの特集や楽器・機材レビュー、ライブハウスやスタジオ情報などが満載で、80年代バンドブームから90年代ヴィジュアル系ブームまでの流行を牽引する存在となりましたja.wikipedia.org。中でも画期的だったのが毎号掲載された**「メンボ(メンバー募集)」コーナー**ですja.wikipedia.org。読者がバンドメンバー募集の広告を投稿できる仕組みで、「VoとDr募集。完全プロ志向、好きなバンド○○…」というような切実な募集文が誌面に所狭しと並びましたnote.com。投稿は当時すべて郵送で行われ、応募者はハガキや封書に住所・氏名・募集文を書いて編集部に送り、掲載されるのをひたすら数ヶ月待つという非常にアナログなものでしたnote.com。当然、誌面には投稿者の自宅住所がそのまま載るため、掲載後は全国から直接手紙や電話が殺到することになります。実際にこのメンボ欄から多くのバンドが結成され、「メンボ」という言葉自体がバンドマンの間で定着したとも言われますja.wikipedia.org。ホコ天で顔合わせした他県のバンド仲間と再会の連絡を取る手段も、この『バンやろ』のメンボ欄だったケースが少なくありませんでした。当時、インターネットも携帯電話もない中、雑誌を通じた情報交換とネットワークづくりがバンドシーンの重要なインフラだったのですnote.com。『BANDやろうぜ』は2004年まで刊行が続き、バンドブーム世代にとってのバイブル的存在となりましたja.wikipedia.orgja.wikipedia.org

原宿駅とホコ天 – 待ち合わせとランドマーク

ホコ天全盛期、JR原宿駅(旧駅舎)は若者たちの待ち合わせスポットかつカルチャーのランドマークとして機能しました。木造の趣ある原宿駅舎を出てすぐ目の前が歩行者天国の入り口だったため、「日曜に原宿駅で○時に集合ね」と約束すれば、そのままホコ天の人波に合流できたのです。駅前には当時歩道橋もかかっており、上からホコ天の熱気を一望することもできましたomoharareal.com。原宿駅周辺は常に若者や見物客でごった返し、周辺の明治神宮橋(通称:原宿橋)や竹下通り入口も含め、一帯がまるごと“原宿ホコ天ワールド”と化していました。当時を知る人にとって、96年の歴史を閉じた旧原宿駅舎の風景とは、まさに**「歩くこともできないほど人を集めたホコ天とインディーズバンド」の記憶と結びついているといいますurbanlife.tokyo。それほどまでに原宿駅はホコ天時代の象徴的ゲートであり、雑誌記事やテレビの原宿特集でも決まって映し出される文化のランドマーク**でした。現在の新しい駅舎になってからは景観も変わりましたが、ホコ天でにぎわった頃の原宿駅前は、まさに“若者の聖地”そのものだったのです。

熱狂の終焉とホコ天廃止の要因

1990年代に入ると、原宿ホコ天文化に少しずつ陰りが見え始めます。バンドブームがピークを過ぎて熱狂が落ち着いたこと、経済不況で若者の熱気が冷めたことに加え、ホコ天に集まる人々の騒音やゴミ問題に対する苦情が地元住民から噴出するようになりましたja.wikipedia.org。さらに人の集中による交通渋滞や事故リスクも無視できなくなり、ついに警視庁は1996年1月をもって原宿ホコ天を一旦中止する決定を下しますurbanlife.tokyo。当初これは「試験的中止」と説明され、将来の復活も示唆されていましたが、結局そのまま再開されることはありませんでしたurbanlife.tokyo。ホコ天存続を望む声も一部にはありましたが、既にインディーズバンドの隆盛から約10年が経ち文化自体が下火になっていたため、大規模な反対運動には至りませんでしたurbanlife.tokyo。こうして1998年6月28日(日)に原宿ホコ天は最後の歩行者天国を迎え、1977年以来続いた若者たちの青空ステージは静かに幕を下ろしましたn510.com。表参道(原宿駅前〜青山通り)の約970m区間は1998年より通行止めを解除され、2001年9月に正式にホコ天廃止が決定omoharareal.com。代々木公園側の拡張エリア(放射23号線約900m)はそのまま恒久閉鎖となりn510.com、若者文化の聖地だった空間は日常の車道へと戻されました。ホコ天文化の消滅は、日本が「失われた平成の10年」へ突入する象徴的出来事だったともいえるでしょうurbanlife.tokyo

最後に、当時を総括する言葉を記して締めくくります。

「ホコ天はバンドブームが白け、日本のバブルの浮かれ騒ぎの終了とともに人影がまばらになっていった。住民が治安に騒さくなってきたのもあるだろう。原宿歩行者天国はついに廃止された。忙しく走る車ばかりの413号線にかつてあった光景は、海に沈んだ幻の大陸アトランティスのようにもはや再現不可能である。」

「【原宿ホコ天】の記憶〜バンドブームとアマチュア・パンク・バンド」より

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