プラトン『パルメニデス』レビュー|「イデア」ではなく「一(1)」をめぐる哲学的迷宮
この本との再会:きっかけはティマイオスの“余韻”
今回、『パルメニデス』を読み返すことになったのは、20年ぶりに読んだ『ティマイオス』の衝撃がきっかけでした。若い頃に所持していた英訳版『ティマイオス』に、かつての自分が残した「→パルメニデス参照(Vid.PARMENIDES)」の書き込みを見つけ、好奇心に火がついたのです。
なぜこの2冊が結びついていたのか。改めて読み進めると、確かに通底するテーマが見えてきました。たとえば、「有」「同」「異」──さらには「一(1)」という存在の根源を巡る終わりなき議論です。ちなみに『ティマイオス』の冒頭は「1、2、3」。何かの暗号のようでもあります。
『パルメニデス』とは何か
『パルメニデス』は、プラトン作品の中でも群を抜いて“難解”な部類に入る哲学的迷宮です。かつて同様に読みにくさを感じた『テアイテトス』を思い出しつつ、本書に取り組んでみましたが……正直、こちらの方が遥かに混沌としていました。
対象があまりに抽象的で、読者の多くは途中で投げ出したくなることでしょう。副題に「イデアについて」とありますが、内容はイデア論というよりも、むしろ「一(1)とは何か?」という思考実験に終始しています。
“原型と被造物”のような分かりやすいテーマは一切出てこず、代わりに延々と「一があるならば…」「一が無ければ…」と仮定の連鎖が続きます。例えるなら、魚が初めて水面から顔を出して地上を見たときのように、読者は思考の地平を超えて、見慣れぬ空間に放り出される感覚を味わうでしょう。
『テアイテトス』と響き合う感覚
同じく難解な作品として知られる『テアイテトス』も、私にとって印象深い一冊です。こちらでは、言語が持つ“空気の振動性”のようなものがテーマの一つとなっていて、言葉とはただの音の集合体であり、意味は後づけにすぎないという感覚に導かれました。
つまり、人間の言語とはただの振動であり、たとえばテレビの音声と本質的に大差はない──そんな認識です。これと同様に『パルメニデス』は視覚を分解し、「1」の存在を失った世界を想像させることで、思考の奥底を揺さぶってきます。
「1」とは何か──神の不在と認識の混乱
この対話篇において「1」は定義されません。けれども、『ティマイオス』やヘルメス文書、聖書的視点からすれば、それは“神”を指すと考えるのが自然です。プラトンの言う「1」は、宇宙の統一原理そのものであり、それが無ければすべては「塊(mass)」──区別も秩序もない“無形の群れ”と化すのです。
この混乱した認識は、どこかデカルトが語る「混乱した観念」にも通じるものがあります。もし「1」がなければ、「多」も成り立たない。そしてそのような世界は、もはや自然ですらないかもしれない。
まとめ:イデア論の影に潜む“数”の哲学
『パルメニデス』は、単に「イデアとは何か」を解き明かす本ではありません。むしろ、“1”という抽象の象徴を介して、イデアの存在基盤そのものを掘り下げていく、プラトン哲学の異色作です。
本書は万人向けではないでしょう。しかし、思考の限界に挑みたい方、あるいは“神の不在”が認識に何をもたらすのかを考えたい方には、この難解さこそが最大の魅力となるはずです。
コメント