ヘルメス・トリスメギストスと学ぶバイブル解釈(2)|『出エジプト記』と二重の啓示
Exodus:脱出の神話とその象徴
旧約聖書の『出エジプト記(Exodus)』は、モーゼとアロンがファラオに対して何度も謁見し、神の命によってイスラエルの民をエジプトから解放しようとする壮大な物語だ。
兄アロンは口下手なモーゼを補佐する存在であり、神(Lord)はモーゼに啓示を授け、実際の対話役としてアロンを指名する。しかし、物語を読むと意外にもモーゼ自身が頻繁に語っている。家畜を追って砂漠を歩いてきた男が、エジプト王という絶対権力者の前で啖呵を切るのだから、恐れは当然だ。だが、それが”神の力”によって背中を押されていたのだと読める。
ファラオとの対峙:意志か、意図か
イスラエルの民を解放せよ――という要求にファラオは当然のごとく反発する。しかし興味深いのは、神自身が「ファラオの心を硬くした」と述べる点である。
これは単なる意思の衝突ではない。神は自身の「偉大な力を見せる」ために、ファラオの拒絶をむしろ前提として設定している。ここにおいて、人間の意志と神の意図、自由意志と運命の問題が交差する。
二つの「しるし」:手品か、啓示か
モーゼが最初に神から与えられたのは、2つの「サイン(徴)」である。
- 手に持った杖を地に投げると、それが蛇に変わった。モーゼが恐れて逃げると、神は「尻尾を掴め」と命じる。そうすると蛇は再び杖に戻った。
- 次に神は「手を懐に入れよ」と言う。するとその手は白く癩病に侵された状態になった。再び懐に入れて出すと、元の肉の色に戻った。
これらは魔術的パフォーマンスに見えるが、ヘルメス的視点ではより深い象徴が込められていると考えられる。
たとえば蛇は知恵、死と再生、医術の象徴。杖と蛇の変換は、道具が生命と化し、再び道具へと戻る――形態の可逆性、つまり「物質と霊の往還」を示しているとも読める。
癩病の白い手は、死・腐敗・分離の表象。そして元に戻る手は「浄化」「復活」「錬金的変成」の可能性を語っている。これはまさにヘルメス的錬金術の核心的モチーフである。
十の災い:神の力と恐怖の演出
ファラオの心が動かないことに業を煮やした神は、災いを次々にエジプトへ下す。血に染まるナイル、カエルの大群、イナゴ、疫病、暗黒――そして最終的には、全てのエジプト人の「初子」が真夜中に死ぬという恐るべき裁きに至る。
だがイスラエル人の家々には、屠られた動物の血が門に塗られていた。これにより「主の使い」はその家を“通り過ぎた”。これが「過越(パスオーバー)」の起源である。
神話を超えた比喩として
これらの奇跡と災いは、単なる恐怖演出ではない。すべてが「変容」の比喩であり、人間が自らの束縛(=奴隷状態)から解き放たれ、霊的再生へ向かうための“儀式的過程”とも解釈できる。
モーゼの行動一つひとつ、災いの一つひとつが「エジプト(物質世界)」を超えて「約束の地(霊的次元)」へ至るための内的アルケミー(精神の錬金術)として読める――これはまさにヘルメス・トリスメギストスが語る「魂の旅」と共鳴する。
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