【サド『美徳の不幸』レビュー】反道徳的寓話に見る“美徳の愚かさ”と思想の逆転
はじめに──新サド選集の文脈と三島由紀夫
桃源社から1965年に刊行された「新サド選集4」は、澁澤龍彦による訳業の中でも特に重要な位置を占めている。当時の日本におけるマルキ・ド・サドの受容には、澁澤の知的導入と共に、三島由紀夫の影響が見て取れる。三島は『サド侯爵夫人』の執筆に先立ち、この“悪徳文学”に深い関心を寄せていた。澁澤との親交はサド再評価の文化的土壌を耕し、この一冊の刊行にも知的背景を与えている。
読者としての筆者は、あえて河出文庫ではなくこの古書のハードカバーを手に取った。サドの作品を読むにあたり、その文体と装丁が作り出す妖しげな空気は、決して無視できるものではないからだ。
ジュスティーヌと“愚かなる美徳”
本書に描かれる主人公ジュスティーヌは、伝統的な意味での“美徳”を体現する人物であるはずだが、その姿には次第に“臆病”“鈍感”“愚直”といった否定的な性格が投影されていく。姉ジュリエットが悪徳を通して栄達する一方で、ジュスティーヌは善良さゆえに繰り返し苦難に遭い、最終的には雷に打たれて死ぬという、象徴的で皮肉な結末を迎える。
マンディアルグはこのジュスティーヌ像を「愚者の悲劇」として読解し、美徳とされるものの脆弱性、あるいは“受動的善”が持つ危うさを指摘した。実際、この作品で描かれるのは「美徳の勝利」ではなく「美徳の破綻」であり、サドはここで倫理の構造そのものを反転させてみせる。
ジュスティーヌ物語3バージョンの位置づけ
『美徳の不幸』は、サドがバスティーユ監獄に収監されていた自由の塔にて執筆した初期バージョンである。のちに執筆された『新ジュスティーヌ』および『悪徳の栄え』と併せて、三部構成の連作をなす。
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『美徳の不幸』:道徳的警句とユーモアを交えた“寓話”の体裁。
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『新ジュスティーヌ』:過激な描写と反道徳の徹底が進行。
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『悪徳の栄え』:姉ジュリエットの視点を導入し、政治的・哲学的色彩が濃厚に。
この初期作における描写はまだ抑制的で、拷問や暴力は象徴的な範囲に留まっている。たとえば、足の指を数本切られ、肩に焼印を押されるといった描写にとどまり、他のバージョンと比して“過激さ”は控えめである。
巻末付録「ジェローム神父の物語」に見る破壊の快楽
特筆すべきは巻末に添えられた“ジェローム神父の物語”である。これは『新ジュスティーヌ』からの抜粋とされ、サド的狂気と暴力性を最も端的に表している。とりわけ、エトナ火山での化学者との会話は、まるで“未来の大量破壊兵器”を幻視したかのような幻想に満ちている。
「地獄の孔よ、俺もお前のように、もしも俺を取り巻く全ての町々を一飲みに滅ぼせたなら、どれほど幸福であろうか!」
これは宗教的悔悛や倫理の回復ではなく、“悪”そのものに宿る破壊の歓喜である。近代科学の倫理的利用に対する予言的批判とも読めるこの一節は、サディズムを単なる性的逸脱から思想の次元へと引き上げる。
結語:美徳は愚かさであるのか?
『美徳の不幸』が提示する逆説——美徳が不幸を呼び、悪徳が栄える——は、一種の反道徳的寓話であり、読者の倫理観を試す挑戦である。ジュスティーヌの“善”は無力であり、むしろ滑稽ですらある。サドが批判するのは、偽善に満ちた近代社会の道徳律であり、その欺瞞性に対する告発としてこの作品が存在している。
澁澤訳における文体は、サドの過激な想像力に対して絶妙な距離感を保ちながら、日本語読者に“サディズムとは何か”を静かに問うものである。
サド文学の入門書としても、あるいは倫理哲学への挑発としても、『美徳の不幸』は今なお読むに値する。そこでは、美徳という仮面の裏側にある、より深い問いが絶えず語られている——「善は本当に善たり得るのか?」と。
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