【孔子】Confuciusと論語──高校時代とバブル期の記憶とともに Confucius(コンフュシウス)とは何者か?
孔子──英語ではConfucius(コンフュシウス)。
紀元前の中国に生きた思想家であり、儒教の祖とされる人物。彼の教えと言葉をまとめた書物が『論語』として知られている。
日本でも古くから教養書として親しまれ、学校の授業でもたびたび引用されることがある。
論語は高校時代の“拠り所”だった
ぶっちゃけ、私は高校を卒業して以来『論語』を真面目に読んではいない。
でも、高校時代──精神的に不安定だったあの頃、私はよく論語を読んでいた。
何でもいいから確かなものが欲しかった。人生の「答え」みたいなものを誰かから教えてほしかった。
だからこそ、孔子のような“悟った風”の人物の言葉に、無意識にすがっていたのだと思う。
漢文教師という名の奇人
高校の漢文の授業では、今でも記憶に残る変わり者の先生がいた。
頭が良すぎるのか、大学からのオファーもあったらしいが断り、高校教師として教鞭をとっていた。
古文も担当していたその先生は、1日40本のフィルターなし缶ピースを吸い、歯は真っ黒。短足でハゲ、強烈な外見だったが、実に面白い人物だった。
NHKの教養番組に出たこともあるそうで、今思えば生涯で最も個性的な先生の一人だった。
もう亡くなってしまったかもしれないが、葬式には出たかったなと、今でもふと思う。
君子とは何か?──論語に見る「人のあり方」
論語の中には、「君子」という理想的な人物像が繰り返し登場する。
いわば“人格が完成された人間”のことだ。
当時の私は、自分がいつか君子になれるだろうかと考えたりした。でも心のどこかで、そんなものにはなれないともわかっていた。
「四十にして惑わず」という有名な一句もある。
年を重ねるごとに人は成熟していくという教えだが、正直なところ、私は四十になっても迷ってばかりだった。
この言葉は、現代人には少し荷が重い。年齢と中身は必ずしも比例しないから。
結局、私は孔子から多くを学べたとは言い難い。
それに儒教の中心にある“孝行”や“目上への従順”といった倫理は、高校を出た頃には「つまらない教え」に思えてしまった。
私は悪の道に魅了され、自然と混沌の中に答えを探し始めていた。
バブル期の和幸と孔子
バブル期のある頃、新宿の「とんかつ和幸」で皿洗いのバイトをしていた。
洗い場で一緒だったのが、中国から来た金(キン)さんという女性。片言の日本語でやりとりをしていたが、孔子の話を出すとよく反応してくれた。
あの頃の中国は、今のような日中関係のギスギスした雰囲気もなく、もう少し素朴なやりとりができていた気がする。
和幸の厨房の湯気の中で、私は「論語」を通じて誰かと通じ合った、そんな貴重な経験をした。
おわりに:論語は“絶対”じゃないが、捨てきれない
論語は、完璧な人生のガイドブックではない。でも、不安定な若い時期に出会うにはちょうどいい強度の言葉たちが並んでいる。
君子を目指さなくてもいい。答えが見つからなくてもいい。
それでも「何か」に出会いたいと思う夜が来たら、ふと論語を開いてみてもいいかもしれない。
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