目視できない惑星「水星」とは何か──ヘルメス神と沈黙の天体をめぐる哲学的考察

星を見てたころ
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【天体観測】目視できない唯一の惑星「水星」──沈黙する神・ヘルメスを仰いで

水星(Mercury)は太陽のすぐそばを公転する、7つの古典的惑星のうち最も内側に位置する星である。その軌道のあまりの接近ゆえに、私たち地上の観測者は彼の姿をほとんど見ることができない。

太陽の輝きに溶け込んだその微かな存在。昼の光に隠され、常に沈黙を守るその様子は、まるで自らを表に出すことを躊躇う内気な者のようでもある。ビジネス社会にもそうした人物は少なくないが、水星はまさにその象徴的天体である。今回は、この最も観測困難な惑星に光を当ててみたい。

沈黙の神:メルクリウス=ヘルメス

この“消えがち”な星が、神々の中でも最も饒舌で俊敏な使者ヘルメス(Mercurius)に対応するとは、なんとも逆説的で興味深い。ギリシア神話ではトート神と習合し、後に錬金術的神秘思想の中では「三重に偉大なる者(ヘルメス・トリスメギストス)」として顕現する。両性具有、媒介者、知恵の伝達者――それがこの小さな天体の象徴である。

観測という行為の重さ

筆者は以前、まず木星を目視で確認した。2018年5月、仙台の夜空に南中した木星は、ひときわ明るく、まさに“王の星”の名にふさわしい威容だった。それは天文学上、木星が「衝」の位置にあったためである。

続いて、国立天文台の「今日のほしぞら」情報をもとに、土星、火星、金星も視認することができた。月齢を再確認し、月が満ちるのが「月齢15」前後であることも再認識した。

太陽は我々が最初に認識する天体である。赤子の頃、公園で初めて空を見上げた時、そこにあったのはまさしく太陽であろう。光と温もりと共に、その存在は私たちの最初の記憶の地層に刻まれている。

◯関連記事→ 【天体観測】肉眼ではじめて見る「木星」

「創世記」の星々

次に認識されるのは月である。太陽と月。この二つの天体は、聖書『創世記』でも最初に神が創造した「大いなる光」として言及される。その他の星々はそのあとに添えられた装飾のように位置づけられる。

筆者もまた、その順序で認識していった。光における優位、明るさ、見かけの大きさに導かれて。しかし、これら古代人が特別視した7つの惑星のうち、水星だけはいまだに肉眼では確認できていない。

ちなみに、ダンテ『神曲』「天国篇」第5歌において、水星天は義務に忠実であった徳高き者の住処とされている。神に仕え、沈黙の中で尽くした者の星なのである。

◯『神曲』水星天の解説はこちら→ ダンテ【神曲】まとめ(25)〜「天国篇」第4歌・第5歌・第6歌

天文薄明の彼方に

惑星たちは恒星ではない。自ら輝くのではなく、太陽の光を反射して光っている。そのため、真の暗闇(夜)がなければ観測できない。

「天文薄明」という概念がある。これは太陽が地平線下18度を過ぎ、6等星までの星が見えるほどに暗くなった状態を指す。水星は、この薄明のほんのわずかな時間帯だけ、地平線付近に一瞬だけその姿を現すのだ。

金星のように宵の明星、明けの明星として親しまれる星とは違い、水星の観測には緻密なタイミングと条件が要求される。都市の明かりや曇天では、到底その繊細な姿に出会うことはできない。

水星は私たち自身の影

地上から見る天体の大小や明るさは、その本質ではなく距離と反射による錯覚である。太陽は巨大で遠く、月は小さく近い。木星は地球より10倍以上大きく、外惑星でありながら明るく輝く。

水星は、そのどれとも異なる。最も近く、最も速く、しかし最も観測困難な星。これは私たちの内奥の「影」とも呼ぶべき存在であり、自我の背後に潜む無意識のようなものである。

結びにかえて──見ることができないということ

私はいまだ水星を目視することができていない。人生の晩年に差しかかってようやく、ようやく6つの惑星を確認したにもかかわらず、最後のひとつだけが欠けたままだ。

都市の喧騒と光害、時間に追われる日常、そして空を見上げることを忘れてしまった現代の私たち。見えないのではない、見ようとしていないのかもしれない。

水星よ、ヘルメスよ──この沈黙の神の微笑みを、私は生きているうちに一度でも見ることができるだろうか?

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