暖炉という暖房方法がモダンでなくなってしまい、「燠火」なるタイトルにどことないノスタルジックな味を感じる。傑作短編集『燠火』の冒頭作品「燠火」の紹介。
あらすじ
フロリーヌは暗闇を上昇する螺旋階段を登り天辺の部屋で開催される舞踏会に招待される。部屋では騒々しい音楽が掻き鳴らされ、彼女は馬の顔をした頑健な女のダンスの相手をする。やがて体を激しくぶっつけ合いながら相手は目を閉じる。
フロリーヌは夢から覚め、馬車(これもモダンなアイテムとは言えない代物)の床に後ろ手に縛られ揺られている。月光の輝く夜である。同じく転がっている袋が体にぶつかり、夢の中のダンス相手の体を思わせる。
ダンスが夢だったのか。それとも今自分は夢を見ているのか。馭者台には二人の男が座り、一人が手綱を操る。誰も口を聞くことはない。フロリーヌはなぜ自分が今こうしているのか全く思い出せない。
男たちは彼女を下ろすと、めいめいナイフの刃を開いて、彼女の両脇から挿し込む。生き絶える前に、フロリーヌは舞踏会の主催者が南米人なのだろうか?と考える。
夢と現実
どちらが夢なのだろうか。この問いは「生首」でも見られる。現実とは平凡さのことで、平凡さは見慣れていることに由来する。見慣れていることとは、前もそうだった、今日も、明日もそうだろう、という固定観念に寄る。
平凡でないことは夢と思われる。現実の反対である。さて夢だと思っていたことが実際に起こるとする。例では同時多発テロの旅客機のビル突入、東日本大震災の津波襲来、オーストラリアの森林火災など。夢はよく”映画のようだ”などと言われることもある。
マンディアルグ【生首】短編集「狼の太陽」より〜あらすじと感想
グレゴリオ暦
私は自分が夢の中に入ってしまったように思える。これは何かの間違いで、布団の中に潜り込んで、サラリーマン時代の夢の続きでも見たい、そう思いたくもなる。
しかし恵みと恩寵により<<<The Great Illuminator(id.est 太陽)を備えた人は、人間の形や肉、鳥の姿など、あらゆるものに驚異を感じるのであるから、彼らには平凡さは存在しない。
そして時間であるが、時間は天体の運動によって生ずるのである以上、そのエネルゲイアをあたかも自分に保証された運動のごとくに思い込むのはよろしくない。
そして暦というやつ、これが曲者で、どこにも時間を勘定する基準点はないのにも関わらず、相対的に歴史を形成するよすがとなっている。
DJコブラ
夢を見ていることを気づかない人は、目を覚ましている人から夢を見ていると言われる。小説では、ヒロインが舞踏会の夢の中にいて、これはもしかすると夢ではないだろうかと疑い始めた時に、夢の中の感覚に一層没頭するための手段のように、ダンスにより一層の力をこめ、物理的感覚に一層集中するように努める。
芸能人や芸能人に群がるファン、スーパーボウルのショーに夢中になる観客とスター、赤いハイレグの水着で腰を降る蛇と黒いコブラ頭のDJ、などなど数え上げればキリがないが、スマートホンが自らの生命のお守りのようである膨よかな子豚ちゃんどもにとり、それらの行動決定は一様に滅びである。