概要(Argument)
古代ギリシャ哲学者プラトンの『ピレボス』〜「快楽について」は岩波書店の全集第4巻に入っており、対話編の中でも快楽というテーマを主に考察していく内容となっている。
無論このいとも聡明な賢者にとっては「快楽」なるものは、澁澤龍彦の本にあるような動物的な衝動・欲求として人蹴りされてはいない。もっとも澁澤はソクラテスを鼻の潰れた豚と呼ぶまでに軽蔑していた。
サド侯爵の主張を至高のものとして崇拝する「快楽主義の哲学」は、単にかたっ苦しい理屈抜きでその場その場に生ずる欲求に従って生きろと勧めている。それはそれで楽しいだろう。
だがプラトンの「ピレボス」の内容はそんな幼稚な理屈のはるか上空にある。そもそも快楽とは何か、どのような種類のものがあるのか、そして最善の意味での本当の快楽とは何かを問う。
◯「快楽主義の哲学」についてはこちらへ→澁澤龍彦【快楽主義の哲学】と奇妙な三角形
「快楽」の種類
快楽には限度を知るものと無限のものがある、という。また魂の快楽と身体の快楽があるとも。正確には「快と苦」と言うべきか。なぜなら快感は苦痛の反対の感覚だからである。
「ピレボス」においては例えば次のように考察される。喉の渇きがあるとしよう、身体は水の元素が不足していることを感覚して、この「空き」を埋めてくれろと訴える。これが渇き。
水分を摂ることによってこの「空き」が充たされ、その過程に快感あるいは快楽が生じる。腹が減る、食べたいなどもこの類。暑い・寒いも同様、以下この種の快苦は限りなくある。
相対的感覚による快苦は、無限に発生すると数える。例えば大東亜戦争下のアンガウル島で激烈な戦闘の末全滅した日本兵士らは、記録によると一滴の泥水を渇望しながら死んでいったという。
◯関連資料→舩坂弘【英霊の絶叫】玉砕島アンガウル戦記・および三島由紀夫の序文
キビしいダイエットや減量下においては茶碗1杯のご飯が死ぬほど美味く感じ、激しいスポーツの合間に飲む水の美味さもまた然り、である。
また限度あるいは節度というものも数えられる。例えば家系ラーメンを食べる時、普通盛りにするか中盛りにするかを決めるのは自分だが、普通盛りで満足すれば良いものを中盛りにして太る。
その違いは食っている時間または量の話になるのだが、中盛りでなければ死ぬという訳ではない。
「快楽」の上にあるもの
総じてプラトンの対話編は白か黒かの答えを出さず、それらの中間を攻めている場合が多い。快楽は魅力があるが、その虜になってはいけないというようなことを述べている。
例えば酒。無限に飲んでいれば気持ち悪くなり、命を落とすこともある。飯も食い過ぎれば吐くし、遊びも度が過ぎれば社会的信用を落とすことになりかねない。
また限度・節度だけでなく、快楽を味わう能力も重要である。すなわち記憶・思慮がそうだ。これらは魂の快苦に関係する。
身体が「空き」を感じて充足を求める時、苦痛を発生するが先々にその充当が保証されている場合、魂は楽しみを感じる。勉強・仕事が終わったら彼女とデートしようとか。
すごい腹減ったから、あとでラーメンや牛丼を食べようとか。ソープで嬢が来るのを待っている時など、そういった状況。これは想像力によっており、以前に経験した快楽の記憶と関わりがある。
まとめ
このように相対的な快楽は思慮によることが大であり、それは絶えず変化するために理性によってコントロール可能である。
様々な快楽がある。筆者個人の例をあげれば、まず最も強いのが性欲、食欲、睡眠欲。ついで映画を観たい、音楽が聴きたい、ゲームがしたい、どこそこへ行きたいなど。
そして本を読むということが私には一種の快楽でありうるのだが、これは一番理性的にましのような気がする。なぜならその趣味は身体の支配を脱しており、何らの地上的害を被る恐れがほとんどないからである。