『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ』 — ルネサンス幻想文学の象徴世界
日本での紹介と翻訳の軌跡
原著刊行が1499年に遡る本書は、澁澤龍彦が『ポリフィルス狂恋夢』の名で紹介して以降も長らく日本語訳が存在しなかったbook.asahi.com。澁澤は著作『胡桃の中の世界』(1988年)でその魅力を初めて紹介したが、実際の全訳刊行は2018年(平成30年)末、大橋喜之訳によって八坂書房からようやく実現したbook.asahi.comkosho.or.jp。500年以上の歳月をかけて届いた邦訳書には、原書の木版画172点すべてが収録されている。ここまでの遅延が示すように、長らく「伝説の奇書」として語られてきた作品だ。
英語版の探究と読破体験
筆者もThames & Hudson社刊の英訳版(Joscelyn Godwin訳、1999年出版)を中古で入手し、読了に挑んだthamesandhudsonusa.com。W. W. Norton版の紹介では「奇妙で異教的、学究的、官能的、寓意的、神話的な恋愛物語」(strange, pagan, pedantic, erotic, allegorical, mythological romance)と評されておりthamesandhudsonusa.com、その予告どおり文字通り型破りな内容と文体が読者を待ち受けていた。全英文で約500ページにもわたるこの長編は、古語と造語、謎めいた専門用語で埋め尽くされており、完読には骨が折れる。とはいえ、苦闘の末に読み通せば、その達成感は大きく、他の英語古典がぐっと読みやすく感じられる一種の「読書訓練書」としての価値もあると筆者は実感した。
象徴で溢れる夢の物語
物語は恋人ポリアを失った若者ポリフィロの夢の遍歴であり、建前上は「恋人を追い求める話」だが、実際には神殿や庭園、奇怪な生き物の描写に終始するbook.asahi.com。円城塔氏も言うように、「ほとんど全てが建築物と登場人物たちの描写に埋め尽くされ、ものづくしよろしくの単語の連打がひたすらに続く」book.asahi.com。その一方で、物語全体は神話や聖書、秘儀(魔術・錬金術)的な引用が張り巡らされた寓意の迷宮でもあるbrewminate.com。夢の中でポリフィロは古代ギリシア神話の女神や司祭、オルフェウスのほら穴、錬金術師ゾシモスの幻影などに出会い、廃墟の大聖堂や装飾に富んだ邸宅、奇妙な植物園などを目にする。まさに「廃墟の風景や官能の祝祭に満ちた世界」が繰り広げられるbrewminate.com。換言すれば、まるでルネサンス期に編まれた怪奇百科事典か絵入り案内書のごとく、古典建築・植物・神話への愛と妄執が頁を埋めているのである。
木版画に見る幻想美とその系譜
挿絵として配された木版画は線彫りならではの鮮烈な描写で、幻想的かつエロティックな場面を次々に映し出す。たとえば上掲図版には、多数の女官たちが男根神プリャポス(プリアポス)に生贄を捧げる儀式が幻想的に描かれており、その奔放なモチーフは本書の異教的側面を象徴しているbrewminate.com。こうした図像は、20世紀の芸術家にも強い影響を与えた。分析心理学者カール・ユングも本書を愛好し、19世紀後半の英国の画家オーブリー・ビアズレーをはじめとする多くのアーティストがこの緻密で奇怪な線画に着想を得ているen.wikipedia.org。メトロポリタン美術館の解説によれば、この挿絵群は「空白を巧みに用いた優雅(spare and elegant)な図像」であり、古代芸術への綿密な研究の結果が凝縮されているというmetmuseum.org。木版ならではの高精細なモノトーンが醸し出す静謐な美しさは、文字の氾濫する本文と対照的であり、視覚的な没入感を読者にもたらす。
読解の迷宮:言葉と背景の壁
文字通り「解読が要らない」箇所は少ない。原文はイタリア語・ラテン語・ギリシア語を奇妙に混ぜ合わせ、さらに古代の文字や符号までも随所に配した混成言語で書かれているbrewminate.com。加えて本書は建築や植物学、神学に関する専門用語や造語を多用するため、辞書をひくだけでは到底意味が追いきれない。例えば、城門の装飾や薬草の説明が続くたびに百科事典をめくるような気分になるが、根底にある寓意や聖書・神話の文脈を知らなければ見落としも多い。したがって読者には広範な古典知識と、時には訳注に頼りながら忍耐強く読み進める姿勢が要求される。
また、読む心得としては、一字一句追うよりも全体の雰囲気を味わうのが有効かもしれない。朝日新聞の書評欄でも触れられているように、本書は『異世界観光案内』として眺めるもよし、活版印刷黎明期の小説として味わうもよし、寓話や象徴の網目に溺れるように読むもよし、というタイプの作品であるbook.asahi.com。すなわち、物語に起伏を追うというよりは、前近代の夢想が紡ぐ「象徴」の一つ一つに身を浸し、挿絵や建築描写の細部を愛でるように読むのが一つの楽しみ方だ。
完読の達成感と他書への自信
余談ながら、こうした難解長編を完読できたという自己満足感は想像以上に大きい。筆者も読み終えた後、他のルネサンス以降の洋書が急に身近に思え、読書の自信につながった。文字が踊る退屈な場面に打ち勝ち、豊かな寓意と挿絵に目を通し切った経験は、読者を一段高い読解力へと導いてくれるだろう。
異教的・官能的世界への窓
最後に、本書にはキリスト教的規範にとっては明らかに「番外地」に思えるモチーフが満載である点も忘れてはならない。Thames & Hudsonの解説にあるように、この物語は「奇妙で異教的…官能的…神話的な恋愛物語」thamesandhudsonusa.comであり、神々や精霊、性愛の儀式が数多く描かれる。その奔放な内容は、16世紀前後の常識からすればきわめてリスキーだったようで、実際初版本刊行直後には「淫猥(licentious)な内容」ゆえに物議を醸したという記録もあるbrewminate.com。挿絵に描かれた裸身や女神崇拝の図像(図版上段のプリャポス像などbrewminate.com)は、それだけで当時のキリスト教社会の慣習と衝突している。だがその禁欲を逸脱した異教的・官能的世界こそが、この書物を伝説たらしめているのも事実である。偏狭な聖典の外に広がるルネサンスの想像力を垣間見る窓として、『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ』は今日でもなお読む者を誘(いざな)い続けている。
参考資料: R. 澁澤『胡桃の中の世界』(青土社)、円城塔「眺めるもよし、解読もよし」(朝日新聞書評 2019年2月15日)book.asahi.com、F. Colonna Hypnerotomachia Poliphili(Thames & Hudson 1999)thamesandhudsonusa.com、Demetra Vogiatzaki「Hypnerotomachia Poliphili and the Architecture of Dreams」(The Public Domain Review, 2022)brewminate.combrewminate.combrewminate.combrewminate.com、METコレクション解説metmuseum.orgなど。
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