泉鏡花『多神教』レビュー|神道・呪術・幻想の戯曲世界

詩煩悩

【泉鏡花『多神教』レビュー】呪術と神々が踊る神道的ファンタジア戯曲

概要と時代背景

泉鏡花の戯曲『多神教』は、昭和2年(1927年)に発表された比較的後期の作品である。鏡花文学といえば明治期の耽美的な散文が主として知られるが、本作は舞台芸術に寄せた構成を取りつつ、幻想性・民俗性・神道的世界観を奇抜なまでに濃密に展開する異色作である。

戯曲としての構造は極めて演劇的で、能や神楽の形式を内包しながらも、西洋近代劇のダイアローグと戯画的展開をも採り入れている。舞台はとある神社とその周囲に広がる森。登場人物は神主、巫女、村人、烏天狗、姫神など、神話的・民俗的存在が多く、場面の進行に応じて現実と幻覚、呪詛と救済が交錯していく。

あらすじと演出の特徴

物語は、神楽の日に神社へ参詣する村人たちの姿から始まる。やがて大阪の役者に捨てられた女(妾)が現れ、胸に藁人形と五寸釘を隠し、呪詛を遂げるべく参拝客に紛れて潜んでいることが明かされる。

彼女が呪詛を実行する「丑三つ時」に向けて、周囲の登場人物——子どもたち、馬引き、神主たち——は神楽の最中に異変を感じはじめる。藁人形が発見され、女は責められるが、そこへ姫神が降臨し、女の願いを叶えると告げる。

幻のような舞台転換の中、女は矢を放ち、空に現れた幻影の“仇”に見事命中させる。ところが、すべては錯乱の只中にあり、烏天狗が現れて神々の秩序を乱すと、神職たちは混乱。最後には全員が夜のフクロウの声に呑み込まれ、「のりつけほうほう」と鳴きながら踊り狂う結末を迎える。

演出上、舞台は能舞台のような簡素な構造を持ちながら、心理的・視覚的には極端に華美な幻視的演出が重ねられる。幻想と現実、神と人、呪いと救済の境界が消失する演劇的空間が立ち上がっている。

神道的キャラクターと民俗性

『多神教』という題名が示す通り、本作には多様な神道的存在が登場する。姫神、巫女、烏天狗、一つ目小僧、狢、神主たちが混在する世界は、神仏混淆以前の「原・日本的多神宇宙」を思わせる。これらは単なるキャラクターではなく、妾の情念を取り巻く象徴存在でもある。

呪術の象徴である藁人形や五寸釘は、古来より丑の刻参りなどに用いられてきた民俗儀礼の道具であり、それが公的空間(神社)で発動しようとする構造には、宗教的秩序と個人の欲望の交錯が込められている。

また、姫神の登場は「神の憐れみ」と「カタルシス」の両義を持つが、その神性は慈愛というよりも恐ろしく即物的である。神主の抗議を無視し、妾に矢を持たせて放たせる様子は、古代の巫術と神託の直接性を思わせる。

戯曲としての笑劇構造と西洋的対比

全編はシェイクスピア的な「笑劇(farce)」の構造も有する。妾の呪いは最初から失敗を暗示され、登場人物たちは次々と滑稽な失態を見せる。とりわけ、終幕で人々がフクロウに取り憑かれたかのように鳴き踊る場面は、『夏の夜の夢』や『十二夜』のような魔的介入と変容の喜劇的効果を感じさせる。

一方で、妾が女の呪詛者であるという事実が暴露された後、辱めを受けそうになる場面には、『マクベス』における女の狂気や暴力性を重ねることもできる。実際、道成寺という能の引用は、女の情念と神の裁きという日本古典における基本構造を象徴的に織り込んでいる。

まとめ:泉鏡花的世界の最終形態としての『多神教』

『多神教』は、泉鏡花が生涯を通して追い求めた「異界の真実」や「女性の情念と神秘」といった主題を、戯曲という媒体で最大限に展開した作品である。神道的象徴、能的形式、そして西洋近代劇的な構成を併せ持つ本作は、単なる怪異譚にとどまらず、宗教・演劇・女性観の交錯する、稀有な幻想演劇といえる。

幻想文学・演劇・宗教民俗に関心のある読者には、再評価に値する一作である。

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