哲学

デカルト【哲学原理】第二部「物質的事物の諸原理について」〜解説(1)

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「精神指導の規則」

デカルトの「哲学原理」は「精神指導の規則」に比較して明瞭さ・簡潔さともに格段にアップしている。根底に流れる思想・方法は首尾一貫しているにもかかわらず、「精神指導の規則」はやや難解であった。

「哲学原理」は数学者らしくさらっと真理を淡々と述べていくのみで、何らの難しい内容とは言えない。しかし単純・明快なものほど我等は知ったつもりになり、見過ごすのである。

例えば天体の基本的な運行は小学校で教わる。3足す4は7。これもしかり。我等はこんな簡単なことはもはや学ぶまでもなく、何の思考の対象に値しないと思い上がる。

アウグスティヌス

デカルトとアウグスティヌスを同時に読んでみると面白い。前者が数学的・明証的であるのに対し、後者は神秘的・信仰的だから。しかしこのことには何ら矛盾することはないのである。

デカルトは理性がこの上なく明瞭にかつ確実に認識するもの以外は、決して真であると判断しなければ人は決して誤ることがない、と説く。

例としてあげると三角形が3つの辺と3つの角から成ること。3つの角の和は二直角に等しいことなど。

ただし例外として理性ではなく神の「啓示」によって精神に明かされることはその上を行くのであって、論じることはないと言っている。

アウグスティヌスの「神の国」には悪魔や天使の名前が出てくるが、デカルトには出てこない。「哲学原理」においてはそれらの名称に代わり真・偽、正・誤という名称が当てられる。

何となれば精神もしくは魂なるものが欺かれるのは、悪魔によって以外の何であろうか。真ではなく誤った道に魂が導かれることは、この上なく不幸であり人にとって身体が病気になる以上の害悪だと語っている。

ウィリアム・ブレイク

またイギリスの詩人、ウィリアム・ブレイクも「堅固な意志によってそうであるとみなされる事物は、事物をそのようにならしめるのか?」(「天国と地獄の結婚」)という問いに対し、そうであると答えている。

この堅固な意志はかつて山を動かしたが、しかしいまや誰一人として堅固な意志を持つことが不可能なのだと。「堅固な意志」が三度繰り返されている。

アウグスティヌスの信仰とはこの「堅固な意志」によって啓示されたものであろう。

第二部「物質的事物の諸原理について」

第二部「物質的事物の諸原理について」では、デカルトは物質世界に物質とその直線運動以外のいかなるものも認めない。

確かにそれらは確実で真であるであろうが、疑問は残る。いくら理性が自己を堅固に保とうと欲していても、我等は身体の影響によって常に目を晦ませられる。

糞したい、小便したい。腹減った、美味かった。腰が痛い、頭が痛い。それら生理的影響のみならず、感覚する外物に対して様々な想像・推測・思いなしによって振り回される。

その様はあたかも毒物や薬物で酔わせられ、正気を失わされるかのようである。これらのことはなぜ起こるのかということについて、デカルトは答えを出してはくれない。それは信仰の問題だからだ。

手と釘

第二部のラストにおいて、デカルトはなぜ人の手が小さな釘よりはるかに大きいのに、釘を真っ二つに分断することができないのかを重大に論じている。

固い・柔らかいという観念は思い込みにすぎず、一般に固いと言われている物体はそれらを形作っている物質同士が静止しているということ以外に原因はありえないと言っている。

すなわち大地(つまり地球)は最も固い物体のひとつである。何せ地球上のあらゆる巨大建築物や山なども支えているのだから。もし大地が柔らかかったなら、全ては地の底へと(一般に柔らかいと形容される流体つまり海におけるが如く)沈んで行くであろう。

固い物体は物質部分の静止の様態によっているのであって、他のいかなる接着手段によるものではない。なぜなら理性はそのようなものを何ら認識しないから。

ゆえに釘を人の手が切断できないのは、手が固体よりも液体に似ているからできないのである。つまり無理に釘を分断しようとするのならば、反対に手を構成している物質部分の方が分断され、かつその行為は感覚に苦痛をもたらすであろうから。

これが釘が固いと呼ばれる所以である、とデカルトは大真面目に語っている。そしてもし我等が手をハンマーやノコギリで防備し、その道具の然るべき部分を釘に対して当てて力を加えるならば、これを可能にするのである。

(以下次回へ続く。)

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