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三島由紀夫【英霊の声】あらすじ・要約・レビュー〜2018年最新版

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三島由紀夫の1966年発表短編小説である。霊媒師の元に集った主人公を含む一行が、降臨した神霊の言葉を聞く。

概要

呼び出された霊は2.26事件で処刑された青年将校らと、大東亜戦争で散った神風特別攻撃隊たち。

三島由紀夫自身が一種の憑依現象により、かれら御霊の声を伝えるているかのようだ。優れた作家というものはイマジネーションと呼ぶにはあまりにも高度な才能により、こうした能力を有するものだ。

能楽・古神道

小説は日本の伝統芸能である能楽の要素を規範とした物語となっている。「能」「能楽」や外来宗教が伝来する以前の日本の信仰を表す「古神道」は、三島文学をより深く解き明かすのに必要不可欠である。戯曲だと「サド侯爵夫人」や「我が友ヒットラー」なども能楽を取り入れ、新劇と融合させたと語っている。

作品中降臨したのは神霊、神と言う名で呼ばれるが、古神道ではない本来の意味では成仏できない嘆きと怨恨の魂である。なのでそれは神というよりは単に霊と呼ぶのが正解ではないか。

古事記や日本書記に記載のある古代の信仰や、天皇の起源などはこれから研究していこうと思っている。そもそも筆者は日本文化を若い頃にバカにして見限ったので、それらの知識は中学校レベルしかないのだ(笑)。

ところがそれらの日本独自の文化というものは、調べれば調べるほどに難解かつ、奥が深いということがわかってきた。

◯「サド侯爵夫人」についてはこちら→三島由紀夫【サド侯爵夫人】わかりやすく紹介・2018年最新

日本文化

我が国本来が持っている美しさ・素晴らしさに気付かせてくれた三島氏に感謝したい。能楽はオペラなどにも比較される日本独自の伝統芸能である。この小説がイタリア語としても出ているのはそのためか。

所謂日本の文学者というものは、日本と名は付いていても日本的ではないような感じがする。その点三島由紀夫こそ、作品でも人格上でも本当の日本人だろう。

そして知識があるイコールなよなよした身体という図式を破り、あの彫像の身体を作り上げた。そして美しい身体を後生大事にせず、自ら無惨に破壊したのだ。

 あらすじ

2.26事件の英霊も神風特攻隊も、同じく月夜の輝く大海に集っている。日本という小さな島国は海に囲まれていると同時に、太平洋戦争が大海原で行われたこともその所縁であろうか。

川崎君という目の見えない青年に御霊は次々に乗り移り、クライマックスではホラー映画のようなポルター・ガイスト現象まで起きる。

キリスト教の神父に当たるであろう審神者(さにわ)の木村先生の導きで、神霊は思い思いの言葉を語り、歌った。

神霊の声を伝える媒介者となった川崎君は生命を使い果たし、最後に息絶える。

天皇

三島の憑依現象を通して読者は英霊たちの集いと語りを聞く。ふたつの神霊に共通しているのは、どちらも「天皇のために」命を捨てたということだった。

「天皇」は古来日本国における神だった。その神のため、若者は命を喜んで捨ててきた。

しかし敗戦によって天皇は「人間である」宣言をした。そして憲法は自衛隊のそれと同じように、天皇を「象徴」という曖昧な表現で存在を括った。

2.26事件の反乱軍にとっての天皇も、神風特攻隊の天皇も、どちらも「神」だった。三島由紀夫が割腹自殺する前の「天皇陛下万歳!」の叫びは、実在する天皇ではなく「神」としての天皇へ向けられた一種の儀式であろう。天皇の概念は三島由紀夫と東大全共闘の討論動画でも語られているではないか。

*参考Youtube動画→三島由紀夫vs東大全共闘

 「見る」

特に神風特攻隊のヴァーチャルな描写は鬼気迫る迫力だ。読者は三島氏の記述と一体になって、アメリカ空母に体当たりする隊員が見たものを眼の当たりにする。

三島氏は「見る」ということに恐ろしく拘っている。船坂弘「英霊の絶叫」に寄せた序文にも「見るということの異様な価値」は自分にとっても大切だ、と書いている。

そして「見る」ことはそのまま三島氏の固定観念とも言える武士道や切腹、戦争、己の血を流すことへの渇望へと繋がる。

その点が私が三島由紀夫に対して「欲望」の観念を感じはするが、「理性」をあまり感じない原因だ。三島氏の言う「見る」とは知識へと結びつかない行為だからだ。

◯「英霊の絶叫」についてはこちら→舩坂弘【英霊の絶叫】玉砕島アンガウル戦記・および三島由紀夫の序文

余談「切腹」

和田克徳著「切腹」によれば正しい切腹とは刀を三分から五分突き刺して腹を切り、真一文字に引いた後刃を返して己の喉を突くと教える。あるいは返す刀を鳩尾に突き刺して十文字に降ろし、息を断つのだと書いている。

三島自身のように深く刺すのは内臓が露出するため武士道上、忌むべきだとする。腸が露出するほど切るのは「無念腹」といい、美しいものではない。ましてや武士たるもの切腹後仰向けに倒れるのは恥であり、うつ伏せるのが常道だ。

「憂国」の中尉はなんと四寸も刀を刺して引き回し、腸が飛び出す時に仰向けに仰け反るのである。これは武士道でも何でもない、ただのマゾヒズムではなかろうか。

介錯の失敗は武士の恥であり断じて許されるものではなく、要求される技能は豆を一刀両断する腕前だと書かれている。そのような大役を付け焼き刃の学生にやらせたのも不思議だ。まともにできるとは三島氏も思っていなかったはずだ。介錯人だった森田必勝は三回も失敗した。このように切腹人をさらに苦しめるような真似は絶対にあってはならないことだ。

折り紙に血で「武」と書く予定は演説劇場の混乱により中止された。これは正統の美しい切腹なら可能だったはずである。切腹は土壇場で「無念腹」に変わり、腸がはみ出ている切腹人を学生は何回も斬りつけ、留めをすぐさせなかった。

三島事件は現代だから許される所業で、武士道からすれば失態がひどく天晴れと呼べるものではない。もし三島由紀夫の御霊が黄泉から語ることが許されるならば、「俺は浅はかだった。絶対に俺の真似なんかするなよ」と言うと思う。

◯「憂国」についてはこちら→三島由紀夫の短編【憂国】あらすじ&最新レビュー

◯和田克徳「切腹」についてはこちら→和田克徳著【切腹】【切腹哲学】レビュー〜紹介・感想・考察

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