エッセー

三島由紀夫「死の論理」美学への反証

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七生報國

まだ三島の全作品は半分も読みきれていない。しかし「切腹」「割腹自殺」「自決」の最後を選んだ氏の論理のようなものは大体わかってきたので、ここでは三島の「死の論理」に対してこれは違うんじゃぁないか、という点について述べていきたい。

何れにしても三島由紀夫は近代日本においても世界的に見ても重要な作家であり、日本人として誇れる小説家であることに変わりはない。生前、これほどの作家に反対意見をする勇気ある人が有名無名問わずいたとは思われないから。またこの点について筆者はネットに公開するのではなく、自分だけの紙のノートにだけ書いておくことも考えた。「日本刀による死」に取り憑かれそれを我が物とした氏に対して失礼ではないかと思ったからだ。

しかし真実を伝えること、真実を求めることがこのxアタノールxの目的である。小生意気だと言っても三島の魂は許してくれると思う。もっとも三島は「7回生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に仕える」「たとえ死しても幽霊となって主君に仕える」「もとより成仏などしたいとも思わぬ」のであるが。これらは氏の愛読書「葉隠」の文句である。三島自決事件においては主君を「天皇」に読み替える必要があった。

◯「葉隠」文書についてはこちら→【葉隠入門】三島由紀夫による「葉隠」の解説書を紹介

リア充

三島由紀夫は勝新太郎、石原裕次郎などと一緒に映画に出たり、作家石原慎太郎との付き合いや若くて美人の嫁をもらうなど、今でいうリア充だった。「文武両道」を掲げる三島は行動にこそ文学の源泉があるのであって、行動は「葉隠」で説かれている原理によるものと考えていた。ひ弱な身体をボディ・ビルでムキムキに鍛え、剣道を嗜み段を上げていった。

英語も堪能で日本だけでなく外国のテレビ番組にも出演し、インタビューでは堂々と自分の考えを述べた。誠に氏の生き様は「葉隠」そのものと言っていいと思う。三島は武士だ。その死に様を含めて武士として成功した。

 主観

三島の論理は自分だけの論理、主観的な論理である。それはあるインタビューでも語っているところである。「私はなんでも自分の論理に引き寄せるんです」と。

そこに着目してもらいたい。氏の論理は普遍的なものではない、ということを。誰でもが高価な日本刀を所持しているわけでもなく、誰でもがテレビに映るわけでもなく、誰でもが有名で地位に恵まれているとは限らない。

三島由紀夫は肉体の死をもって「完成」と呼んだ。それはある意味的を得ているように思われる。しかしこの理屈はなんと自分勝手で自己中心的なことであろうか。

その肉体はどこから来たのであろうか。その死は、その力は。その金は、名声は?そもそもそのように考えて語る魂は一体何なのか?リア充というものは基本的に物質主義で、抽象的なもの謂わゆる形而上学に興味を持たない。

 英雄

「英雄的な死」に憧れる三島は、自らの最後を「大きい」もの、「劇的な」もの、「ドラマティックな」ものにしたかった。そして成功した。それは認める。だが氏のように誰もが有名だとは限らない。

英雄的な死つまり「英雄的」とは、英雄でありながら世の中から忘れ去られ、誰からも相手にされず、惨めったらしく孤独に死ぬ、それこそより英雄的である。三島のように大勢の観客や若い部下、しかも引き止めたとはいえ森田という死の道連れまでいる死に方が言う程英雄的だろうか?どちらが恐ろしいか。

そのように惨めに死んだ偉人の例を挙げる。本当の英雄だ。モーツァルト、エドガー・アラン・ポー、ボードレール、ロートレアモンなどがそうだ。他にも歴史に残っていない英雄がいることだろう。なぜなら誰も彼らのことを知らないからだ。三島の死はド派手すぎる。それは芝居であり観客すなわち群衆を必要とする。他者をしかも群衆を必要とする死などが「究極の完成」であるはずがあろうか?

 まとめ

筆者はキリスト教徒というわけでもないが、自殺はいかなる理由にせよ「反則」だと思っている。この世に生まれた時自分で生まれたのではないように、死ぬ時もその「自分ではない」力・作用によって終わるべきだと考える。

その力・作用を「神」と呼ぼうが「運命」と呼ぼうが、人間の思惑をはるかに超えた強大な何かであることに違いはない。三島は偉大だ。しかし地上や地球の外まで意識を広げていれば、もっと高みまで昇れたことだろう。その魂に平安があるように。

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